合理的配慮って言葉が気に食わない話
私は、合理的配慮という言葉が、どうしても気に食わない。なぜ、「配慮」という言葉を選んだのか。
もちろん、合理的配慮の中身自体は納得できるし、必要だと思う。障害者やさまざまな事情を抱えた人が、自由に仕事や学業に専念できるのは、素晴らしいことだと思う。そういう社会を、少なくとも目指す姿勢は常に持たなければいけないと思う。
だが、だからこそ、「配慮」という言葉が気に食わないのだ。
私にとって、「配慮」は優しさや親切心と同じで、他人に期待をするものではなく、あったら嬉しい程度のものだ。友人関係ならいざ知らず、他者の優しさや親切心を前提に仕事の計画を立てる人はいないだろう。「配慮」は、優しさや親切心と同じで、自然と相手のことを想い、したいと思ってするものだと、私は思う。
例え、相手が社会的弱者だろうと、必ずしも好意的になる必要はない。弱者強者関係なく、周りの人全員に好意を抱いて親切に優しくし続けられる人の方が珍しいと思う。
むしろ、社会的弱者だからこそ、周囲に好意的な人がいない場合であっても、味方がいない場合であっても、不利益を被らないようなシステムにしなければならない。親が、先生が、友人が、同僚が、誰もいなくても、弱者ではない人とある程度同じように生きていけるようにならなければならない。
これは、心や感情の話ではなく、システムの話だ。
「合理的配慮」という言葉は、社会や公的機関や会社や学校が再構築しなければならないシステムの話から、個々人の心や感情の問題にすり替えているように、私には思える。
システムであれば、人が変わっても維持できる。運用する人次第ではあるが、システムを継続していくこと自体は難しいことではない。
配慮という、人間の心ありきの話にしてしまうと、人が変わったら対応が大きく変わってしまう。でもそれでは困るからと、いわゆる、学校のクラスにいる「あの子のお世話係」ができてしまう。
無神経で配慮ができない人だらけの職場に入っても、それでもサポートし合えるようなシステムを作らなければならない。
みんなが自分のことで精一杯な時代だからこそ、他者の優しさや親切心や配慮に頼らなくても生きていけるように、ならなければいけない。
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