ぼくのBL 第五十一回 たまには落語の話
今日(6月5日)は落語の日、という情報を得たので、たまには落語の話でも(知らなかったんかい!)。
各論を語ると時間が足りないので、今回は総論ということでご勘弁願います。
ぼくの落語とのファーストコンタクトは中学の頃、今から35年ほど前だ。
当時自宅にはテレビの録画機器がなく(そんな家が多かった)、日曜の夕方はサザエさん(当時はまだちびまる子ちゃんは放映開始前)を見るのも気が重く(サザエさん症候群)、他に見たいテレビ番組もない。
選択としてはラジオしかなかった。
そこから流れてきたのは、ぼくにとって新しい世界だった。
情報としては音声だけだが、そこには確かに映像が見えたのだ。
衝撃を受けたのは古今亭園菊の『風呂敷』、小学生のころからミステリオタクだったぼくには、この噺は不可能犯罪モノの傑作だと思ったのだ。
(下の動画は古今亭志ん生version)
粋を感じさせる落ちの一言も良かった(俺ぁその亭主野郎の顔が見てえや)。
師匠である古今亭志ん生の『風呂敷』も聞いてみたが、この一言はなかった。園菊の創作なのかもしれない。
語り口にも惹かれた。デフォルメされているからこそのメリハリの利いた人物描写。初めて寄席に行ったのも園菊が見たかったからだ。
そこから時代は流れ、大学生になってから寄席に通うようになった。
今は開催していないけれど、新宿の末廣亭では土曜深夜に、上野鈴本演芸場では日曜早朝に、それぞれワンコインで3、4名の二つ目がそこそろ長尺の噺をたっぷり聴かせてくれる公演があったのだ。
コロナ禍までは年に数回、寄席通いをする生活が続いていた。
今年になって数年ぶりに寄席に行った。鈴本、最高でした。
現在のぼくの推しは柳家喬太郎。
出会いは大銀座落語祭り。最初に観たのは『午後の保健室』だったか『諜報員メアリー』だったか。既成の枠をぶっ壊すような破天荒な舞台。メタ視点を多用した独特な語り口。
こちらは新作落語(喬太郎作)の「夜の慣用句」。
落語はここまで自由なんです。
落語の魅力とは。
それはアレンジの愉しさだ。
ジャズと落語の親和性はよく語られるところだが、一番の共通点はスタンダードとアレンジの関係性だろう。
落語には原点となる噺があり、それをそれぞれの噺家が自分なりのアレンジを施すのだ。時間調整で前半をカットする場合もあるし、噺の途中で(軽い落ちが付くところで)切ってしまうこともある。
だいたい、落語に慣れてくるとマクラ(導入部)を聞いただけで「あ、この噺は〇〇だね」と分かるようになる。そこで悦に入っているようでは初心者だ。
ここからどんな伏線を張ってくるのか。
どんなアレンジをしてくるのか。
それを楽しみに感じられるようになると、落語の楽しみは無限大に拡がってくる。
山椒の仕込みに思いのほか時間を取られてしまったので、今日はこのへんにしておきましょう。また語る機会もあるでしょうから。