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現場の感覚 VS 科学的な検証

科学的な議論、よく言われることです。

一方で言われること現場の感覚が大事。

これもまた言われることです。

本来であれば現場の知見、感覚が数値化されて科学的に検証されていくことが望ましいといえます。

しかしながら、なかなかそうはなりません。

なんでかなーと思います。

1.新型コロナウィルスを巡る現場の話と科学(統計)の話の認識ギャップ

新型コロナウィルスは単なる風邪、警戒しすぎ、一部の人がそういっていましたが、一部の統計的な見地から検証している方からもそうした分析結果を聞いたことがあります(誤解を生む可能性があるので、個人名は控えます)。確かに統計的なデータで見ればそうですが、ニュースなどでみる現場からの緊迫感は、全く楽観視しているものではありませんでした。

ここで現在の感染者数と死亡率を見ていこうと思います。

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https://support.google.com/websearch/answer/9814707?p=cvd19_statistics&hl=ja&visit_id=637289391757902596-754838746&rd=1

2020年6月28日付のデータです。

日本、世界のデータで見ても致死率5%ぐらいですね。

これを大きいとみるかそうでないかは意見が分かれそうですが、無症状の人もいることも考えると実際の致死率はもっと低いかもしれません。

だから、あまり怖がらなくてもいい。

という話も成り立つような気はするのですが、医療機関の現場の人からそうした話は聞いたことがありません。

確かにデータでみるとそうだが、現場の感覚的には違う、そうしたことはあらゆる場面でありそうですね。


今回、コロナの話をするのがメインではないのですが、こうした現場の話と科学的な検証との認識ギャップはどこにでもあるのではないかな、と思ったりしています。

2.現場からの知見を理論化する

今、フロイト、ユング、アドラーに関連する書籍(この三人だけではないですが)、「フロイトと後継者たち」、「神話学入門」を読んでます。

そこで気づいたこと、ですが、まだ科学的な検証が十分に可能でなかったこの時代でした。彼らが得たデータは現場、つまりクライアントから得られたものを蓄積して、それを理論化したものでした。

事例から理論のフロー

ザックリいえば、こうしたフローでしょうか。フロイト、ユング、アドラー、この心理学者の3巨頭も、治療者を通じて得られた知見を、個人の考え方で解釈し、それが理論化されるという経緯を辿っています。

それぞれの理論は、現代の科学的な検証からは否定されているものも多いです(例えば、フロイトのリピドーの話など)。

一方で、フロイトの偉大な無意識の発見にありますね。

この無意識の発見が、ユング、アドラーにも影響を与えたことが間違いがないでしょう(それぞれ袂を分かつことになったとはいえ)。

現場から得られた知見を集め、ケーススタディとして論文化、文書化する。

これは社会科学においてもしばしば取られる方法ですが、実証分析全盛期、すなたち検証に科学性が問われる時代において、常に批判されるのは「一つのケースに過ぎない」のでは?という問いに答えられない、ということです。

実証性、客観性、再現性のいずれも満たしえない。

科学性が欠如している、という批判にさらされます。

「現場の科学」というのはあり得るのでしょうか?

「基礎を積み重ねたら、いつか、応用になるという神話を疑え。現場をもつ社会科学の研究領域では、基礎を積み重ねても、なかなか応用にはならないんだ」
   
「社会科学の領域では、応用を考えるのなら、最初から、応用することを考えて、しこたま考えて、研究を組みたてることだ。基礎をやっていれば、いつか応用になるはずだ、と考えること自体が甘い。現場をなめるな」
   
「現場に還る研究がしたければ、最初から現場に還ることを想定して、方法を選べ。あとから現場に還ることを考えても、おそいんだ」

中原先生の師匠からかけられた言葉らしいですが、社会科学者として耳が痛くなる話です。

無題

理論から実証の流れは上記のような形でしょうか。

つまり理論に基づき仮説が設定され、そのデータを分析するためのサンプル収集、データ分析がなされるわけです。

このフローをみてもわかるように、科学性、再現性でいえば、こちらの方が優れていることが分かります。

事例から理論の事例では、そもそも事例がどういう経緯で選ばれたのか?ということが問われます。まして、フロイト、ユング、アドラーの場合だとクライアントの個別性とカウンセラーの個別性という二重に恣意性が働きますから、とても再現性はありません。

科学性というと、実証性、再現性、客観性が問われていますが、これらすべての要件を満たしてません。

ですが、未だに使われてづけている、読まれ続けているのがこの三巨頭の本です。特にアドラーについては、ベストセラーになった「嫌われる勇気」がありますね。こちらは日本におけるアドラー心理学の見方を大きくかえるきっかけになったといえるでしょう。


3.オリジナリティのある理論は現場から生まれる

科学性のないものであるにもかかわらず、未だに、フロイト、ユング、アドラーの考え方は、多くの人に一定のインスピレーションを与えています。

それは批判も含めて、多くのものを示唆するものがあります。

彼らの知見の多くは、現場(クライアント)との忠実な記録に基づいています。それは彼らの本を読めばよく分かります。クライアントの症例に基づいて彼らなりの考え方で解釈しています。

フロイトは性的衝動(リピドー)、ユングは集合的無意識、アドラーは劣等コンプレックスの考え方に基づいて。

そして彼らの理論(理論とは呼べない科学的ではないものが)が、未だに一つのベースになっていることは疑うことは出来ないでしょう。

この辺りは何とも言えませんが、オリジナリティのある理論は現場から生まれているもの多い気がします(経営学・会計学ではアメーバ―経営、カンバン方式など)。

科学性を重視して現場に何の役にも立たないようなことを繰り返すことは、科学的には正しくてもそれは全く有用な成果とはいえないでしょう。

現場の情報を科学する。この辺りは質的分析が鍵を握っていそうですね。

いずれにしても科学性がないはずの三巨頭の本がいまだに読まれ、多くの人に影響を与えている。

そのことに改めて驚きを感じています。

そして私も、彼らの本から多くのインスピレーションを得ています。

残念ながら、それを科学で証明するのは難しそうです。





質的研究の持つ可能性



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