人の幸せを喜べる理由
昨日は周囲の3つの幸せな出来事に喜ばせてもらった。
いずれも他人の幸せなのだけど、それが私を笑顔にしてくれた。
1つは、知り合いの人が欲しくて欲しくて仕方がなかったものを購入できた、という報告を受けたことだ。なかなか入手困難なものが手に入った時の幸せを想像して、思わず電車の中でニヤニヤしながらお祝いメッセージを送っていた。本当に嬉しかった。
もう1つは、あるイベントがうまくいったという報告を、家族から受けた時だった。
ある計画を立ててやっていたところ、それがドンピシャでハマり、成果をあげることができたらしい。これもその喜びを想像すると、こちらまで嬉しくなってお祝いのメッセージを立て続けに送っていた。
最後は、今宿で教えている中学生がメキメキと伸びてきたことだ。
私は英語を教えているが、当初は本当に基礎が全くわかっていなかった。基礎の基礎から教えたし、何度も同じことを繰り返し伝え続けた。最近では問題を解いてもらっても、正解をすることが増えてきたし、単語はちゃんと書けるし、心から「すごいねー」と何度も言っていた。
本人も嬉しそうだし、英語が面白くなってきたと言っていた。真剣に問題を解いているその純粋な姿に心を打たれている。
この3つに共通なのは、自分以外の人の幸せだ。人の幸せを心から喜んでいる自分を見つけて、また嬉しくなった。なぜなら、「人の幸せを喜べる人は、本当に幸せな人」だからだ。
つまり「私は幸せな人なんだ」と思えたことも、嬉しかったのかもしれない。
もし私が不幸のどん底にいたら、何かに不満を持ち日々愚痴を言い続けていたら、決して人の幸せを喜ぶことはできないだろう。
羨ましいと思ったり、嫉妬したり、また自分の不幸を嘆くだろう。
他人を気にするより、自分の気持ちを尊重し、その気持ち通りに行動することで、人は幸せだ、と感じる。少なくとも私はそうだ。
「自分を満たすことが先」という考え方は、ずっと長い間タブーとされていたような気がする。
少なくとも私の時代はそうだった。「まず周りの人のことを考えましょう」と、人に迷惑をかけるな、協調性を持ちなさい、と言われてきたが、中学生くらいから心の中で反発していた。
何か気持ち悪さを感じていた。そこで幼いながら出した結論は、「まず自分を幸せにしよう。自分が幸せでなければ、私は人のために行動なんてできない」だった。
こんな結論を出したのは、小学生の頃にクラスの女子全員が私と口を聞かなくなり、それでも学校に行き続けた結果、ある日突然一人の女子が私と口を聞く、と言い行動に移した途端、指示をしていた女子ボスとその取り巻き以外があっという間に私と口を聞くようになったという豹変ぶりを、魅せられたからかもしれない。
人は簡単に裏切り、人は自分の保身のために動くことを、10歳くらいで知ってしまったからかもしれない。だったら私もまず自分が自分を幸せにしたらいいし、その上で余力があれば人のために何かをするということでいいんだ、と結論づけたのかもしれない。
自分に余裕がないのに助け合う、というのは、確かに以前の日本では成立していたらしい。
それは全員が貧しかったから。つまり、ほとんど全員が同じ生活水準だったからだろう。
今は決してそうではない。人は生まれながらに不平等であり、いろんな価値観があり考え方があり、生き方がある。みんなが貧しいわけではない。ただ、震災の時にはみんな一致団結する、というのは確かに存在するので、みんなが同じ状況になった時、自己犠牲ではなく助け合いの精神が生まれるのは、日本に多い現象なのかもしれない。(私は幸いにも大きな災害の経験がないので、聞いた話から書いている)
もちろん人のために行動することに喜びを感じる人もいるだろう。それは本当に素晴らしいことだと思う。しかし、私の場合はまず自分が幸せでなければ、昨日のように人の幸せを心から喜ぶことはできない。なんと心が狭い人間なんだ、と思えなくもないが、これが私なんだ、と思っているので否定もしないし、むしろ人の幸せを喜べる自分で良かったと思っている。
それにしても、今思い出しても昨日の3人の人たちの幸せを思い出すと、またニヤニヤしてしまうほど、「本当に良かったな」と思えている。
「幸せのお裾分けをもらった」というのは、こういうことなんだな、と実感している。