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旅の総まとめ


旅に出ると、どうしても「総まとめ」をしたくなる。
別に誰かが、やれ、と言ったわけでもないのに、
頭が勝手にまとめをしたがる「癖」なのだろう。

自分のことは自分が1番よくわかっている、

自分のことは案外自分ではわからない

と言うのは、全く違うことを言っているのに、
おそらくほとんどの人は、この二文が矛盾してるとは
思わないだろう。
どちらも真実であることを、知ってるのだ。

私も、自分で分かってなかった自分を最近よく発見する。

大胆に見えて繊細な部分があるとか(自分で言うな)
引きこもりがちの多動症気味とか、
高い山だと思ったら余計にやりたくなるドM体質とか、
「自分ってこんな人間だったのか」と、驚きの発見をしている。

そのうちの一つに、旅好きだけではなく、旅によって影響を受けやすい性質、と言うものがあり、それが「総まとめ」をさせるのだろうと思っている。

旅によって影響を受けやすいか、どうかは、その人の旅の仕方に現れる気がしている。

観光地に行くこと、見ること、で満足する人はおそらく影響を受けにくい。
私は、ほぼ計画を立てず、どうしても行きたい箇所は数箇所にして、あとは思いつきや、天気次第、または流れのままに旅をするので、観光地を見るだけではなく、そこに行くまでの道のりや景色さえもじっくり味わうので、その感想まで事細かく覚えている。

つまり旅に出た瞬間から、環境が目まぐるしく変わるのさえも楽しみ、記憶に残す。
一つ一つの旅の過程、結果を、まるで、奥の深い味のある料理を、じっくり味わうかのように心に感じさせているらしい。

だから旅に出ると、心が前面に出て来て、心が私の体を引っ張ってる気がすることがある。

「心」が行きたいといった場所に、「私」が連れて行き、「心」が感じたいことを感じてもらい、後から「私」が、「総まとめ」をしているらしいのだ。
だから私の「心」が感じたことや、その感覚を、「私」が頭を使ってまとめ、手を使って文章にすることで、心を連れて行った「私」が、納得しているような気がする。

心と私が、別物で、普段仕事をしている時には、「私」が主役だが、旅に出たり、小説を書くときは「心」が主役になってるのかもしれない、と言うことに今気がついた。

夕暮れ時の海辺で、「私」は「心」に語りかけた。
「ここに来て、この景色を見て、この経験をしたかったんだね」と。

自分でも不思議な感覚だが、私が旅に出るのは、私の心が望むことを叶えるために、心を連れ出しているのかもしれない、と思った。


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