自由に生きていい
先日のおしゃべり会の進行役を自ら引き受けてくださった、「笠原 なつみさん」が、素晴らしい気づきを書いてくださり、感心した。
本当にありがとうございます!
私が話している間、笠原さんがメモを取ってらっしゃるのは気づいていたが、私がその時、その瞬間に出てきた、なんの準備もしていない言葉を、しっかりメモをされていたのが素晴らしい。
笠原さんの記事の中にある私のこの言葉は、確か笠原さんが、
「自由に生きよう、長く続けてきた仕事を手放す時に不安はなかったのですか」
という質問をされた後に答えた内容だったと思う。
「不安症、と言えば私です」と言ってもいいくらいに、根暗で(古い!)、将来のために早め早めに準備をする性格だった私なので、27年間も続けてきたビジネスを手放すことは簡単なことではなかった。結局最初に辞めようと思ってから4年半かかった。
絶好調の時期を経験してるからなおさら辞めることは簡単ではなかった。
「本当にやめていいの?」
と、何度自分に問いかけただろうか。
そのうち、自分に嘘をつけなくなった。
このあたりの経緯はどこかの記事に書いたが見つからなかった。。。
また見つけたらお知らせしますね。
自分が手にしてないものを手にしようとする時、人の意識は遠い先にある。
しかし、そもそも立っている地盤がしっかりしているからこそ、遠くを見ることができる。
じゃあ、
今自分が立ってる場所ってどんなところなのか。
地盤は固いのか。
これを確認することが、自己分析なのだと思う。
え、じゃあ私の地盤は固くないよ、と思った人も大丈夫。
今、何とか生きてることがすでに地盤は固いのだ。
私の同年の友人たちは既に10%から15%は亡くなってしまった。
生きてることを確認できただけで、地盤は十分に固いのだ。
朝起き上がれると、ああ、今日も生きていられる、さて、どう生きようか、と考える。それを毎日続ければいいだけだ。
あとは、「どんな毎日を送りたいか」だけだ。
これも案外簡単だ。
あなたの理想の毎日に必要ないことを、一つ一つ止めてみるといい。
それで心が一つ軽くなったら、それはあなたに取って必要ないものなのだ。
一つ止めるとスペース、つまり心と時間の余裕ができる。
すると、「そう言えばこんな生き方したかった」ということを思い出すかもしれない。
子供の頃に願っていたことを復活させてもいい。
忙しいと、縛られていると、どんな生き方をしたいのかを思い出すことも、考えることもできない。それが、誰かにとって都合がいいこともあるが、自分の心にとっては全く都合が良くない。
だから幸福感が生まれない。
私たちは実は幸いなことに、自由な国に生まれている。
それなのに不自由にしてるのは誰なのか。
周囲からの刷り込み
常識や「べき」という強制
思い込み
これらは実は形はない。法律でもない。マナーでもない。
(マナーも国が違えばまったく違うので、マナー講師をしていた私がいうのも何だが、あまり意味はない。マナーとは、自分がどうありたいかを具現化したものだと思う。
西欧のハイソサエテイな社会では、必要なプロトコールが存在するだけ。
日本では茶道などの世界にも存在する)
そんな形のない、法律でもないものに縛られているなんて、実はおかしなことなんだと気付いた人から自由になっていく。
あっという間に。
私がまさにそうだったから。
自分で縛った鎖は自分で切れる。
自分の人生の主役は自分。
それを邪魔できる人は誰もいない。
人と同じでなくてもいい。
私の心が喜んでいればそれでいい。
そう思って、今日も今までにないくらいの幸せを味わっている。
この点は後日書いていくとしよう。
Set me free.