認めると楽になる
昨日「嫌なことはもうできない」というテーマで書いた。
https://note.com/uenohiromi03/n/ne2bbb2847922
そ
れ以外のことはやりたくない、というレベルではなく、「やりたくないことはできない」という状態になってしまった。
昔は嫌なことができていた。だからこそ、嫌なことができなくなっていること、またやりたいことが本当に狭くなっていることを、自分でなかなか認めることができなかったようだ。
しかし、昨日noteに書いたことでようやくそれを認めることができるようになった。
そして、認めたらすごく楽になった。
私の友人に音楽で活躍中の人がいる。幼い頃からずっと続けてきた音楽の道で食べていることがすごいな、と思って、ある時「ずっと貫いていてすごいな、と思うわ」と、言ったことがある。
私も一時音楽の道を目指していたが、デビュー寸前で自分には合わないと思ってやめた経験があるから、彼女の活躍がまぶしく感じられていた。
すると彼女は、たった一言こう言った。
「だって、私にはこれしかないから」と。
その時は、「いや、そんなことはないでしょ」と言ったくらい、本当の彼女の気持ちは理解できていなかったと思う。
しかし、今「私にはこれしかないから」という心境がわかった気がする。
彼女にとって音楽は、ずっと続けてきたことであり、もちろん好きなことであり、逆にいえばそれしかやりたくない、それしかできないという意味だったのだろう。
今の私は「旅と書くこと」しかできなくなってしまっている。
書くことについてはブログを14年間、1年365日書き続けたことがある。(途中、2日くらい完全に忘れてしまっていたが)さらにnoteは連続600日以上続けたり、noteを書かなくても小説を書いていたり、と、ある時期からずっと書き続けている。
そして、書くことが好きだ。
旅は客室乗務員になった頃から、国内外問わず不定期で続けていて、子育て中は一時期中断したものの、再開し、ひとりで自由気ままに旅ができるようになってからは、一層その魅力に取り憑かれている。
私がなかなか「これしかできない」ということを認めることができなかったのは、「嫌なことでもちゃんとやらないといけない」「なんでも器用にこなせる人でなければいけない」と、刷り込まれていたのだと思う。そういう人が優秀なんだ、とどこかで思っていたらしい。一方で「器用な人」であることが、「器用貧乏」なのではないか、と思い、あんまりかっこいい生き方ではないな、と思っていたことも事実だ。
では、なぜ嫌なことができなくなったのだろう。
2021年に頑張らず、我慢、無理をしない、と決めたことによって、本来持っていた自分が現れてきた、すなわち本来の自分らしい生き方に戻ったのかもしれない。
振り返ってみれば、昔から嫌な教科はさっさと切り捨て無駄に勉強しなかったし、好きなことはどれほど反対をされてもやり切ってきたのだから、社会人になって社会に染まるために、生きやすくするために、無理やり自分を変えていたのかもしれない、と思うと、自分が可哀想に思える。
一方で、私にとっては難しい「社会に合わせる」「嫌なこともできる」ことが、なんとかで聞いたことを「よく頑張ったね。偉いわ」と褒めて、そんな自分を手放した。
どんな生き方をするのかは、いつだって選べるし、変えられる。
いや、突然生き方が変わることがある、という方が正しいのかもしれない。
どうやら私は「嫌なことはできなくなってしまった人生」をこれから歩いていくようだ。
サポートありがとうございます!いただいたサポートは、次の良い記事を書くために使わせていただきます!