嫌なことを辞めて、自分を取り戻す
本当は気が進まないのに、引き受けてしまうことがある。
おそらく誰もが一度は経験したことだろう。
引き受けてしまうのはなぜなのか。
それは、目先の利益であったり、断る勇気がなかったり、引き受けた方が相手が喜ぶから、であったりする。
私の場合は、目先の利益、という理由が一番大きかったな、と思う。
パンデミックで、人生最大且つ原因不明の自己嫌悪に陥った。
自分のことが嫌で嫌で仕方がなかった。ただ、その理由も、どこが嫌なのかもさっぱりわからなかった。ただ、今の自分が嫌いならば何かしら変える必要があるということだけはわかっていた。
それでも何をどう変えていけばいいのか、お先真っ暗になってしまい、とりあえず興味があることを片っ端から勉強してみた。
仕事が激減し、時間だけはたっぷりあったからだ。
一つの資格もとったし、資格は取れなかったがファイナンシャルプランナーの勉強をしたことで、少しだけ経理の勉強にもなった。
それよりも勉強をすることで得た最大の副産物は、自分の好き嫌い、得意不得意がわかったことだった。
同時に嫌いなことでもやらないといけない、と思っていた自分に気がついた。嫌なことはやらなくていいんだよ、と自分に言った自分に驚いた。
今までは、嫌なことでも頑張ってやることが、素晴らしいことだと思い込まされていたからだ。
結局自分が嫌っている自分とは、誰かから吹き込まれた古い価値観を持つ自分なのだと気がついた。
・我慢していたらいいことがある。
・無理をしてでも、体に鞭を打ってでもやり遂げないといけない。
・いつも何かを頑張っていなければ、自分に価値がないとさえ思ってしまう思考。
・人の役に立っていないと、存在意義がないと自分を責める思考。
これらが、私を苦しめる。
そしてこれらは、そもそも私が望んだ思考ではないのに、そう思い込んでいた自分がいた。
私じゃない。私らしくない。
そう思った瞬間、ガラガラとこれらの思考が崩れていった。
人が変化するためには、一度壊れる必要がある。壊れたら再生できる。逆に言えば、壊さないと変化はできない。
「価値観の崩壊と再生」が、2021年から2023年にかけて行われた気がしている。
2023年の私の目標は、「無理しない、我慢しない、頑張らない」だった。これを目標にしなければ、せっかく再生しようとしていのに、元の自分に戻ってしまう気がしたからだ。
そして2023年の9月に、世界一周の旅に出て、3つ目の訪問地アイルランド・ダブリンに到着した朝、雨上がりのキラキラと光る可愛らしい家が立ち並ぶ住宅街の石畳を歩いているとき、
「ああ、スクールをやめよう」と思った。
それから、本当に自分がやりたかった「作家になる」ということだけに専念する生活をするようになる。
長い間かけて、嫌なものと人を手放し、ようやく手に入れた「好きなことだけする人生」。
それでもまだ時々、元に戻りそうになる。
元の生き方と自分は、履き慣れた靴のようで心地がいい。
ただ、その靴は誰かに買ってもらったもので、自分で選んではいない。
さらによく見ればその靴はボロボロで、踵が外れそうになっているのに、履き慣れているから心地いいと思ってしまう。だから、まだ捨てずに靴箱の片隅に置いているのだ。
ただ、踵が外れそうになっている靴を履いてみると、やっぱりこれ以上は履けないよね、とすぐにわかる。
ああ、また履いてしまった、と反省もする。
そして自分で気に入って買った、新しい靴を履いて「やっぱりこれが好きだわ」と思う。
ただ、「新しい靴が自分にフィットするまで履く時期」らしい。
靴の皮が自分の足に馴染むまで少しだけ時間がかかる。そんな感じだろうか。
好きなことしかしない人生を歩き始めて、8ヶ月が過ぎた。
そろそろこの人生に没頭したい。
誰にどう思われようが、自分が本当に今幸せか、を心に問いながら生きていけばいい。
奇しくも亡き父がいつも会うたびに聞いてくれた「今幸せか?」という言葉を、私は自分で自分に問いかけながら生きていこう。