オセロな日々
オセロゲームを知らない人はほとんどいないだろう。
二人でするゲームで、あらかじめ白と黒のどちらの石を自分が使うのかを決めて始める。
白と黒の丸いプラスチック製のコインのような石を使って、正方形のマスに置いていく。
真ん中から始め黒や白のオセロがおいてある隣にしか置くことができない。
白、黒、白と並んだら、真ん中のくるっと裏返され白になる。「挟み撃ち」をすることで、自分の色に全てを変えることができる。最終的に、黒と白のどちらが多いか、を競うゲームだ。
正方形の隅と隅を取れば、全てがひっくり返るのでそれを淡々と狙っていく。
子供の頃、何度か誰かの家でやったことがあり、私はあまり得意ではなかったと記憶している。
この「挟んでしまうと、一気に白が黒、黒が白にひっくり返る」という様子が、最近の私の頭の中で頻繁に起きている気がしている。
・ずっとものすごい努力をしないと、何事も成し遂げられないと思っていたら、いとも簡単に大変なことを周囲の力を借りて成し遂げている人がいる。
・寝る間を惜しんで働けば、少し余裕のある生活を送れると思っていたら、ある時期を過ぎたら投資の力によって全く働かなくてもかなり余裕のある生活を送っている人がいる。
・仕事を真面目にやることで評価されると思っていたら、真面目かどうかよりも実績で評価される。
・人の役に立つ人になることが大事だと思わされてきたが、まずは自分を大事にすることのほうが重要だと確信する。
・仕事とは嫌なことでも我慢してやるべきものだと思われていたが、実は好きなことを仕事にしていれば嫌なことや大変なことも、大変と思わない。だから続く。
オセロな日々、とは、結局「ずっと信じていたものが、全く真逆だったということを知り、価値観がガラッと変化すること」だ。
おそらくこれは私だけではなく、ここ最近多くの人たちが何かしら感じていることではないかと思う。
「時代が変わった」ということなのかもしれないが、人々の考え方も微妙に変化しているように思う。
ただ、人の思考にオセロゲームのルールのように決まったルールがないことから、オセロの石をひっくり返すか返さないかは個人の自由となる。
先日も、オセロの石を頑なに変えない人と一緒に仕事をしている人の話を聞いた。すでにひっくり返している人のほうが、ひっくり返してない人よりも苦労をする。
相手を変えることは難しいので、うまく使っていくしかない。「私だったらどうするか」を聞かれたので、いくつか例をあげてお話をした。
なかなかオセロの石をひっくり返せない人が、オセロの石をいとも簡単にひっくり返せるようになるには、環境を変えることだ。
日本で通用している法律や常識が、海外では全く通用しない、ということがよくある。その場合、「郷に入っては郷に従え」で、訪問しているこちらがオセロの石をひっくり返すしかない。
これを繰り返していると、常識や固定概念が崩れていき、「何があっても驚かない」ようになり、日本に帰ってきてもオセロの石をひっくり返しやすくなるように思っている。
逆にずっと日本にい続ける人は、なかなかこの石をひっくり返すことができなくて、常識や固定概念を固く信じ続けることになる。それはある意味、誰かに利用されてしまうことが多いのだが、もちろん本人は全く気づいていない。
気づかないことはある意味幸せかもしれないので、余計なおせっかいはしないし、言わないけれど。
もちろん全ての人が海外に行く必要はないし、海外に行っていない人もオセロの石をひっくり返すことができる人もいるが、手っ取り早い方法が環境を変えることなのだと思っている。
私は趣味で数年前からタロット占いをしているが、昨日自分を占ったらやはり来年は引っ越しをすることになりそうだ。多分そうだろうな、と思っていたので「やっぱりな」と思っただけで、決して驚きはしなかった。なぜか環境を変える必要があるなと、ここ最近なんとなく感じていて、いよいよそれを実行する時がきたようだ。
引越し先はいくつか候補を挙げているが、いずれもその引っ越し先では良いことや転機がたくさん待っている、とカードに出ていたので楽しみにしている。
引越しによってさらに荷物が減り、オセロな日々が当たり前になっていくのだろうと思うと、私の人生には「退屈」という文字がないんだな、と改めて思う。
このミニマリストの方の引越し風景を見れば、環境を変えるのは案外簡単だなと思うかもしれないので、気になる方はどうぞご覧ください。
オセロな日々を、これからも楽しんでいこうと思っている。