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多様性を認められる人は案外少ない


多様性。ダイバーシテイという英語の言葉の日本語訳だ。
私は「人はそれぞれ違う」という意味だと思っている。
今時代は「多様性を認める必要がある時代」に入ったと言われている。
会社の方針の一つに「多様性を認める」という文言を入れているところもある。
なぜ、多様性なのか。

みんなが同じ方向を向いていて、ほぼみんな同じ生活を手に入れ、それが幸せだと思っていた時代が終わったからだろう。この言葉が日本で使われるようになったのは、コロナよりも少し前だったと思うが、コロナ以降多様性を認めることはさらに必要になった気がしている。

リモートで働く人と、会社に通勤する人
転職する人と、会社に残る人
ベジタリアンと、なんでも食べる人
お酒が好きな人と、苦手な人
結婚する人と、シングルでいる人

もう言い出せばキリがないくらいに、今はみんなと同じ、ということがほぼなくなってきている。
これは一人一人が自分が心地よいことを大事にし始めた証であり、多様性を認めることでより自由になっているのだと思う。
自分が心地よいことを大事にするからこそ、相手の多様性を認めることができるようになるはずだ。
自分だって他の人と違うのだから、相手も自分たちとは違うということを認め、尊重するということができそうな気がする。しかし、相手の多様性を認めることは案外難しいようだ。

最近も「そんなのはおかしい。こうするべきだ」という主張をする人に出逢った。最近は、人の断捨離もかなり進めているので、「○○するべきだ」という言い方をする人は、私の周囲にあまりいないのだが、あまりよく知らない人だったので油断していた。
「ああ、こうして多様性を認めることができない人は、まだまだいるんだ」と、ちょっとした事故にあったような気がした。
以前の私なら、ずいぶん腹を立てショックも受けただろうが、これも多様性。
すなわち、「そんな人もいる」ということ。そう思うことで、今後関わることは一切ないが、「あなたはあなた、私は私」と、しっかりと境界線を引くことができ、むしろ相手がどんな人なのかがわかってよかったと思った。「人はそれぞれですからね」という言葉だけを伝えて、その場を去った。

それぞれの価値観があり、考えがある。「人はそれぞれ違うんだ」ということを、心から認めることがスムーズにできる人と、そうでない人がいる。これも、「人それぞれ」だ。

この記事を書いていて、私が多様性を最初に感じたのはいつだろうか、と考えてみた。
一つは中学時代。もう一つは高校時代のある出来事が、「人はそれぞれなんだ」と言うことを実感させてくれた。

中学生の頃、授業が終わり掃除の時間の時に、男子たちが掃除などせず暴れていて、私の掃除の邪魔になったことがあった。そのため私は男子に「掃除しないなら、邪魔だからどっかいって」と言ったところ、このうちの1人の男子が持論を展開し始めた。

女は黙って掃除しとけ。
世の中で有名な人たちは、全員男だ。料理だって、有名な料理人は男だ。だから、男の方が偉いんだから、女は黙って掃除でも、家のことでもやっとけ、という、まあとんでもない、今ならパワハラと言われてもおかしくない持論を、中学2年の男子が言ったのだ。
私は猛烈に腹を立て、反論を始めたが、「世の中で有名な人たちは全員男」と言う事実には勝てなかった。帰り道、ボロボロと泣きながら家に帰り、驚いた母にその「事件」を伝えた。
すると母は、「その有名な男性を陰で支えている女性がいるから、その男性は活躍できるんだよ」と言ってくれたが、私はそんな生き方は絶対にしない、とこの時強く誓った。
こんな考え方が、堂々とまかり通っていた時代があったのだと思うと、ゾッとする。

もう一つは、高校2年でアメリカ留学をした時のことだ。ホームステイ先の両親とテレビを見ながら団欒をしていた時、ホストシスターとブラザーである、7歳と3歳の子供たちが、両親に「Good night」を言うためにやってきた。「Good night」と言いながら、お互いをハグし、頬にキスをする。この頃にはもうずいぶん見慣れた光景になっていたので、驚きはしなかったが、だからこそつい「親子でもハグして、キスするんですね」と、日本人とはあまりにも違う習慣の一つを、自分に納得させるように言った途端、南米のペルー出身のホストマザーが、心の底から驚いたように言った。「日本人は、しないの?」と。
私は「はい。日本人は親子でハグもしないし、ましては頬にキスなどしません」と言うと、「なんで?」と、まるで宇宙人を見るかのような表情で私を見ながら問い詰め始めた。
「日本人はお互いに大事な存在であると言うことがわかっているから、わざわざハグや頬にキスをしないんです。言わなくてもわかっているから」と何度言っても、信じてもらえない。最後に「信じられない」と言っていたが、ペルーと日本という地球の裏側同士の人たちは、こんなにも理解し合えないのか、とショックを受けた。
しかし、高校生ながら「国が違えば文化も違うのだから、少なくともどちらが正しいとかはなく、むしろ理解はできなくても、相手の文化や習慣を尊重する気持ちを持っていよう」と学んだ気がする。私は、アメリカで理解できない文化習慣に出会った時、心から理解することができなくても、「そんな文化もあるんですね」と認めるようにしていた。文化習慣に、どっちが正しいなんてないし、そんな議論は無駄でしかないからだ。相手に「あなたは間違っている、私の文化習慣が正しい」なんて言えるわけがない。
国が違えば、文化習慣も違う。考え方も違うかもしれない。そんな経験を10代のうちにできたことは、多様性を自然と認められるようになったきっかけだったのかな、と思い出した。

人はそれぞれ違う。だからこそ、相手を理解しなくてもいいが、認めることは大事。
私たちは違うところがたくさんあるけど、あなたはそれでいいし、私もこれでいい。
そんな関係が築けたら、違う価値観の人同士も一緒にいても心地いいはずだ。

誰もが心地よく生きられる権利がある。そんな世界を作っていくのは、相手を理解できなくても、相手を認める気持ち。
自分が自由でいたければ、相手の自由も認め、尊重する。
ただそれだけのことなのだけど、それが案外難しい人もまだまだいるんだな、とわかった出来事だった。


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通りすがりのnoter Hiromi
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