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好きなことしかできない


振り返ってみれば、好きなことしかやってこなかった。
母親に無理に連れて行かれたオルガン教室(オルガンって知らない人多いだろうな。電子ピアノのようなもの)は、全く興味がなくすぐに辞めたのに、ドラムは12年間続いた。
幼稚園の時に初めて見た外国人の姿とその言葉(おそらく英語だっただろう)のかっこよさが鮮明に記憶に残り、やがて英語熱、留学熱へとつながっていった。
そこで得た英語力を武器に、客室乗務員に合格し、勤務中に感じていた「後輩を教えることの面白さ」がきっかけで、退職後英語と客室乗務員希望の人たちを育てるスクールに就職した。

当初はうまくいっていた女性オーナーとの関係が、スクール規模拡大で崩れ始め、結局経営困難ということで、唯一の正社員だった私は解雇された。
転職活動を続ける中、自宅に遊びにきてくれていたそのスクールの生徒さんたち二人に、「私がスクールを開いたら、来ますか」と言う言葉に、二つ返事でOKをしてくれた彼女たちが独立後の最初の生徒になった。

スクール経営の宣伝のために営業先として行き始めた大学や短期大学で、就職セミナーという言葉もなかった頃に、やったこともないセミナーを引き受け、知り合いに頼まれた接遇研修を引き受け、社内接遇審査の仕事も引き受け、やがて社内審査の制度作成に一から加わってほしい、と言われ引き受けた。紹介が紹介を呼び、営業に行かなくても仕事依頼が来るようになった。
別の知り合いに紹介された高校講演の仕事は、学校から指名されるようになった。
年間講演数は、年間200回近くになった。ほぼ毎日講演や研修に出かけ、夜はエアラインスクールの授業をしていた。当時のスケジュール帳は、講演予定でびっしりだ。1日に4校も行っていた日もあった。

スクール規模拡大を実行に移すため、さらに大都市へと移転した。それでも物足りなさを感じていた時、東京であるセミナーに参加し、主催者の人はもちろんだが、そこに参加していた人からの「東京に来ないの?」という一言が雷に打たれたかのような衝撃で、そこから東京移転に向けて動き出した。
初めてコンサルの人に相談しながら準備を進めたところ、テナントも、住居もスムーズに見つかり、幸先の良いスタートを切った。この頃にはSNSでの宣伝がメインとなっていたが、広告料はかけず、10年以上、毎日書き続けた自分のブログがメインの宣伝となった。
やがて、YouTube、LINEへと発展したが、広告宣伝費はほぼかけない経営で売り上げは過去最高となった。それを3年連続続けた。山を登り切った気がしていたし、ずっと上を目指していた自分がいなくなったのを感じていた。

仕事がひと段落する夏の終わりに出かけたインドネシア バリ島。そこで毎日のように、「仕事を辞めたい」と同行した家族に言い続けた。それはまるで無意識で、まるで自分が言っているのを、どこか遠くから見ているかのような自分がいた。
しかし、20年以上続けたものを手放すのは容易ではなかった。
あともう少し、と継続を決めた半年後パンデミックは起きた。

辞めどきを教えてもらっていたのに、それを無視したことを後悔した。できることはやったが、まるで動けない日々が続いた。今までにない絶望感と無力感を味わった。相手は、初めての経験であるパンデミックであり、緊急事態だった。勝てる相手ではない。受け入れ、流れに沿うことを要求された。
その代わりに、自分にとって居心地の良い土地、それは地元に戻ること、を決めた。その翌年父が亡くなった。亡くなる前日、自分への1年間の癒しとしてリゾートホテルに宿泊していた私に、2度、父の訃報を知らせる家族からの電話の声を聞いた。それは、現実となった。
2度聞いた、幻聴だと打ち消したあの電話内容と、一字一句同じだったことに鳥肌が立っていた。

その翌年、ようやく世の中は落ち着きを取り戻し、少しづつ仕事が戻ってきたが、どこかで辞めるタイミングを見計らっている自分がいた。いつ、どのようにすれば、生徒さんたちに迷惑をかけずに辞めることができるのか、を考えている自分がいた。

その頃、頻繁に同じ人から嫌がらせのメールが来るようになった。今まで25年以上こんなことは一度もなかったのに、だ。
弁護士に相談し、色々と対策をしようとしたが、むしろこれを辞めるきっかけにしようと思った。全く言われのない、なんの根拠もない、全く知らない人からの嫌がらせだった。嫌がらせ、誹謗中傷に対して真正面から戦う人もいるが、私は同じ土俵には立ちたくなかった。同じレベルの人間になりたくないし、関わること自体が自分の運気を下げる気がした。

私が上に上がればいい。

そう思っていたとき、誰にも見せることのない自分史を書き、自分のやりたかったことに気づいた。世界一周。それもファーストクラスで。
そこから計画を立て始め、同時に辞め時を計画し始めた。それでもまだ最終決定はできていなかったが、夢中になって世界一周への旅の準備を始め、2023年9月、48日間9カ国11都市への旅に出た。

3つ目の訪問先である、アイルランド・ダブリンに早朝到着し、アーリーチェックインをさせてもらって、シャワーを浴び、雨上がりの太陽がキラキラと濡れた道路を照らす、まるでミニチュアのような住宅街を歩き始めた時、「ああ、スクールをやめよう」と、とても自然に、すごく突然に降ってきたかのように思った。
その旅を終えた1ヶ月後、私は27年間続けたスクールを閉じた。

世界一周の他にやりたかった、もう一つのこと、小説家になる夢を追いかけ始めた。
働かない生活は不安がなかったといえば嘘になるが、嘘のようにその生活は続いていた。日常生活を大事にし、30年以上経験がなかった、夕食を普通の時間に食べることも、土曜日に遊びに行けることも経験した。なんて幸せ者なんだろう、と何度も思った。
8ヶ月間で4本の小説と、一本の旅行記を書き上げ、エッセイはほぼ毎日書き続けた。

ある日、あることがきっかけであるコミュニテイに入り、全く知らなかった世界を知った。勉強したいと思ったことを見つけ、現在も継続中だ。この勉強のために、それまで目覚ましをかけずに迎えていた朝を、朝5時に起きる生活へと変えた。
小説を書き、勉強する。その生活が日常となっていった頃、教えることを懐かしく思う自分が現れた。たまたま見つけた進学塾の講師のアルバイト面接に行ってみたら、その後の筆記試験の結果も待たず採用が決まった。これまでの経験全てが活かせる場を見つけた。
面接の二日後には、高校生の小論文指導を任され、おかげさまで好評となり、通常1ヶ月程度の研修を受けないといけないらしいのだが、次々に担当授業が増えそうだ。
しかし、自分のペースを崩したくはないので、わがままを言って、週に2、3日程度、それも数時間程度のペースにしてもらっている。
人生はいつだって、予測不可能だ。

ただ、いつでも自分の意思が一つだけあった。
それは「自分が好きなことしかしていない」こと。
自分が興味を持ったことは、すぐに行動すること。
頼まれたことは、基本的に断らないこと。
そうすることで、年齢の壁を経験が打ち破ってくれることを知った。
まるで水を得た魚のように、教えることを楽しみ、息をするようにどんな生徒にも教えられる自分を体験している。

自分が興味を持つこととは、何かのサイン。
その方向に進めばいいよ、というサイン。
そして、水を得た魚はさらに太海へと泳ぎ出そうとしている。
まだまだやりたいことがたくさんあることに気づいたのだ。
小説を書きながらも、やりたいことはどんどん挑戦していく。
結局は、子供の頃と全く変わっていない生き方だ。そして、この生き方しか私はできない。
結局は、好きなことしかできない。

これでいい。
これが私だ。
This is me .



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