宇宙論への招待(佐藤文隆)【書評#136】

佐藤文隆先生による宇宙論入門書。前半はプリンキピアをもとに物理学においての物事に対する見方が書かれている。哲学的な側面が多くやや読みづらいという印象。後半は発行時点での宇宙論の最先端が書かれている。全体的に難解な内容が続くが、そこが岩波新書らしくて良い。

 個人的には社交的なフックと内向的なニュートンが自分の説を主張しあい、対立していたことが意外で面白かった。

 「命題」はニュートンがプリンキピアの中心部分と意気込んだ部分であるが、今日からみると常識化していることの羅列にみえ、面白味に欠ける。論証と実証データとの照合は微に入り細をうがっている。今日の「科学的」というイメージは、このあたりが模範になって定着したともいえよう。しかし、この手法は当時においては斬新なものだったのであろう。今日からみると”おもしろくもない”部分が後世の科学に与えた最大の影響といえるかもしれない。 p.24

 力学の最小作用原理による表現はライプニッツまでさかのぼることができる。当時、ジェスイット派の修道士が中国に入り、中国の哲学書を翻訳しヨーロッパに紹介した。ライプニッツは中国思想に大いに関心を持っていた。とくに、全般的な調和の中に法則があるとする中国の思想に強くひかれた。モナド(単子)の予定調和の彼の哲学もにも、その影響をみることができる。最小作用原理もこの思想の延長上にあるといえる。なぜなら、運動が微分方程式で時々刻々に未来を決していくという見方とは対照的に、最小作用原理では、過去から未来にわたる全運動の過程を積分してしまった「作用」という量が最小になるというかたちで定式化されるからである。 p.26

 アニマ排除の異端狩りとデカルト主義からの重力の考え方への批判に対する「仮説を立てない」というニュートンの居直りは、科学の発展的性格からすれば必ずしも妥当ではない。仮説を立てないというよりは、ある段階での隠在的な性質も将来においてはデカルト的に見れるようになるかもしれないという希望を表明すべきなのである。それはもちろん、自分の理論が最終のものでなく、有限な妥当性しか持たないものであるという謙虚さを要求する。ニュートンにはこの謙虚さが欠如しているが、それが要求されるようになったのは今世紀初頭の現代物理学の勃興期になってからである。 p.49

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