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北村は、子供の頃から「人は何の為に生まれてくるのか。僕は、せっかく生まれてきたのだから、何か目標を見つけて、自分の限界まで挑みたい。そうしないと時間がもったいない」という観念を持っており、その観念は成長するにつれて、どんどん強くなっていった。北村の口癖は「僕には時間がない」。それゆえに様々な分野にチャレンジし、常軌を逸しているとも言える努力量で真剣に取り組んだ。それに伴い、数多くの挫折も経験した。

進学校に在学していた高校生時代は自転車に熱中していた。「大学には進学せず、競輪選手になりたい」と思い、部屋中を自転車雑誌や自転車のパーツで埋め尽くし、北村独自のトレーニングを毎日実施していた。

あるエピソードを記述すると、北村はその日も自宅で地図を広げ、競輪選手になる為のトレーニング計画を練っていた。計画内容は”地図上での推定直線距離で家から約200kmほどの目標地点へ自転車で向かう。アップダウンの激しい峠の坂道を走破する必要があるが、到着するまで休憩はしないルールを自分に課す”というものだった。実際に行動に移した北村自身は「当然、地図は読めるから、目標地点までの標高差の激しさもわかってたんです。だけど、地図を見てると、カンタンに行けそうに思えたのね」と笑って、その失敗を振り返った。「まだ高校生だし、帰りが遅くなると親が心配するから」と深夜2時に家を出発。「道を作られた方も、この道を人が自転車で走るとは考えてなかったと思います」というような峠の難路に大苦戦し、結局16時間ぶっ通しで、約200kmほどの道中を漕ぎ続けた。休憩はしないというルールだったが、「目標までもうちょっとだし、余りにも喉が渇きすぎて、生命の危機だって思えるくらいだったので、仕方なく」漕ぐのを止めて、持ってきた牛乳一パックを、一気に飲みほした。しかし、その牛乳は、常温状態で16時間を経過していた為に、完全に腐っていた。牛乳を飲み干してすぐに体の異変が始まり、北村はその痛みで道中で意識を完全に失い、倒れてしまった。北村いわく「倒れている僕を見つけてくれて、助けていただいた方には本当に感謝しています。起きたら病院のベッドだったの。今思えば、本当に危なかった」。


東大に入学後、東京大学運動会ボディビル&ウェイトリフティング部の先輩と出会い、薦められるままに関東学生選手権に出場する。しかし、筋肉質とはいえプロボクサーを目指していた身長173cm、体重55kg程度の身体では、まるで大人の中に子供が混じっているような状態で、恥ずかしさと情けなさで泣きそうだったという。しばらくすると惨めさが消え、今度は激しい怒りが湧きあげてきた。

浪人時代から、予備校の休み時間に学校を抜け出して懸垂を行ったり、トタン板を丸めて作った手製のリストウェイトを付けるなどの独自の筋力トレーニングをしていたが、ボディビルを本格的に始めたのは東京大学入学後である。そのボディビルに対する熱中ぶりは常軌を逸したもので、本人も「筋肉を大きくする為ならば何でもやった」と自負し、奇行とも思える行為さえも実施した。

ボディビルの初期の段階では、家族と一緒にとる「普通の食事」以外に、卵を20-30個、牛乳を2-3リットル、さらに鯖の缶詰を3缶、加えてプロテインの粉末300gを毎日摂取した。また、このような食事を消化吸収するために、消化剤を大量に摂取した。さらに筋肉のサイズアップに効果があるとして、鶏肉をミキサーにかけペースト状にしたものを大量に摂取した。その結果、ボディビルを始めて僅か10か月で40kgの体重増加に成功する。凄まじい執念が実り、わずか1年程で96kgまで増量、2年後の関東学生選手権を圧倒的実力で優勝。雪辱は果たしたが、既にボディビルへと傾倒していた彼は、社会人大会へとステップアップしていく。

そのボディビルへの熱情のために、大学の授業には全く出席せず、最終的に東京大学を中退している。自分のやりたい事以外は全て余事になってしまう、極端な北村の努力主義が災いした。「東大の近くまでは行くんだけど、ある道を右に曲がれば東大で、まっすぐ行けば公園なのね。でも僕はまっすぐ行っちゃうの。公園でトレーニングしちゃうのね」と語っている。

大学からドロップアウトし、将来を見据えない生活を過ごしていた北村は「将来の自分はどうあるべきだろう。僕は人の役に立ちたい。お医者さまになろう」とまた一念発起し、昔、使った参考書を引っ張り出してきて猛勉強を開始した。北村は、二浪して東京大学に入学・中退を経た21歳の段階で、医学部への受験を決意した。「全部忘れてたから、また一からやったのね」。打ち込んだことには徹底的にストイックになるマッスル北村さんですが、その勉強スタイルはストイックそのもので、「本の内容を覚えるまでは、帰らないし、食事もしない」とだけ言い残して、本当に帰ってこなかったとのこと。

そして、東京医科歯科大医学部に一発合格、入学するも、北村にとってボディビル以外は余事だった。「やはり、僕はボディビルを極めたい」。ボディビル一本に集中して取り組む為に、またもや中退する。「入学式で親と写真を撮ったんだけど、これ以降、父の笑った顔を見たことがない」と北村は苦笑しながら語った。北村と父親との関係は、衝突の連続であった。

高重量のダンベルで過酷なトレーニングに挑んだ結果、胸や腕の筋肉を断裂したこともあるが、それには怯まず、怪我が癒えるとすぐにトレーニングを再開した。また、ボディビルにおいては筋肉を目立たせるため、試合前の段階では皮下脂肪を減らすための減量を行うのが一般的とされているが、その減量をかなり過激な方法で行ったため、身体中の電解質が不足したり、低血糖症のために倒れ、救急車で病院に搬送されたことが何度もある。

彼の経歴の中でも最も語り草となっているのが、1985年アジア選手権における凄まじい減量である。8月11日の実業団選手権に優勝した直後、急遽アジア選手権のオファーが入る。チャンスとばかりに二つ返事で了承したはいいが、あと4日しかなく、コンテスト直後で身体は疲弊しきっている状態であった。「この状態で出ても結果は知れているので、少し好きな物を食べて筋肉に張りを持たせよう」と考え、食べ始めたが最後、コンテスト直後の食欲は凄まじく、コントロールできないまま食べ続けた結果、わずか2日で85kgから98kgへ太ってしまう。

電車を乗り継いで山奥まで行き、そこから自宅までの100kmマラソンに挑戦する。途中で足の爪がはがれ、シューズの中が血で溢れるほどだったが、気絶することなく計120kmを15時間かけて走り抜き、14kgの減量に成功。アジア選手権、ライトヘビー級のタイトルを手にする。

2000年8月3日、ボディビルの世界選手権に参加するべく、脂肪を極限まで落とすために20kgの急な減量を行った結果、異常な低血糖状態となり、急性心不全を引き起こし死亡した。39歳没。死亡する前に倒れ、救急隊員に運ばれている時に、目を覚ましたマッスル北村さんが救急隊員の方に言った最後の言葉となったものが、「ブドウ糖入れないで下さい」というものだったことです。

亡くなる数日前にも北村は倒れて救急車で運ばれており、この時は処置が間に合い、一命を取り留めていた。北村の身を心配した実妹が「めまいがしたら飴を舐めて。飴一個でいいから」と懇願するも「僕は、そんなわずかなカロリーすら摂取したくないんだ」と断る徹底ぶりであったという。

北村の遺体を収容できるサイズの棺は無く、特注の棺で火葬場に送られる事になった。

「他人を納得させる記録や結果よりも、たとえ自己満足と笑われようが自分で自分に心から「よくやった」とひとこと言える闘いこそ、まことの勝利であり人間としての自信と誇りを得て人生で最も大切な優しさや思いやりを身にまとう瞬間だと思う」

『鍛えれば鍛えるほど道は開ける』これは北村が常々自分に言い聞かせていた言葉ですが、まさに北村の行動はその言葉をひたすら信じて突き進んでいるようでした。夜になると宮本武蔵や大山倍達などの武道家や偉人・賢人と言われる人たちのの本、また物理学・哲学・宗教に至るまで様々な分野の本を読みあさっていました。そして『生きる』ということについて考えておりました。『生きるということはどのようなことなか』『与えられた人生の中で自分は一体全体何をすべきなのか』本当にこの問題をいつもいつも考えていました。北村の自己鍛錬は単なる自己鍛錬ではなく、自己の追求でもありました。自分の限界見極め、自分の進むべき道を探っているようでした。


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