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長く不明だった尉殿権現(現・田無神社)の跡地を発見した 岩田朱実 さんの講演会

2024年3月9日、西東京市の多目的ホール「コール田無」にて市民交流グループ「フラワーネット」主催による講演会が開かれました。講師は地元の郷土史研究家、岩田朱実さんです。

岩田さんは日本に残る巨石信仰や陰陽道を研究し、地方誌などに論文を発表しています。この日の講演内容は「尉殿大権現(田無神社)の遷宮〜現代に生きる陰陽道」です。田無神社がどの場所にあり、どのように遷宮(せんぐう)したか、という研究発表でした。科学的根拠に基づく新しい学説に集まった人々から驚きの声が上がりました。

年末年始大人気だった「田無神社」の謎


西東京市の田無市に鎮座する田無神社では五龍神の崇敬が行われおり、今年の干支である龍年に因んだご利益を求めて年末年始には多くの参拝者が訪れ、参道から所沢街道の交差点にまで列が連なりました。

田無神社の歴史は非常に古く、創建は鎌倉時代後期の正応年間(1288~1293年)と伝わり約7百年以上の歴史があります。

現在では金運や仕事運がアップする「開運神社」としてメディアに登場することが多く、またサッカー選手原口元気さんの奥さんの実家としても有名です。

美しい巫女が厳かに踊る田無神社の例大祭

旧神社跡地はどこに?二つに分かれた尉殿権現


そんな田無神社ですが一つの謎を抱えていました。それは田無神社が17世紀に現在の東京都西東京市田無町3丁目7−4に遷宮したのですが、元の場所がわからなくなっていました。遷宮とは神社の引越しを意味します。

17世紀に遷宮した際に西東京市の住吉町へ田無神社から分祀された神社が「尉殿権現」です。つまり、田無神社は昔は谷戸町にあり、その頃は「尉殿大権現」と称していた。

その後、17世紀に現在の場所、田無町へ遷宮し、名を田無神社と改めた。その際に住吉町にも分祀され、元の名前であった「尉殿権現」を引き継いで現在に至る、という事です。

古地図にある神社跡から判明した旧田無神社の場所

岩田さんの説によると、田無の郷土史書の地図に税金・年貢免除地である「除地」が旧宮山(現・谷戸町)にあり、”神社跡”として残っていた、その番地が記載されていたので現在の番地に当てはめてみると、市立田無第二中校の校庭でプールがある場所だと判明。(岩田さんの話によると、このプールは水道水ではなく、この場所の湧き水を使っているとの事で、非常に冷たいのだそうです。この場所は市民にとって非常に重要な湧水を汲める場所であったことが伺えます)

田無神社→旧田無神社跡→尉殿権現神社は二等辺三角形で結ばれている!

さらに岩田さんはその跡地と現田無神社、住吉町にある尉殿権現は二等辺三角形で結ばれていた事も発見します。(長辺836メートル)この測量方法は陰陽師か真言宗の修験者が使う独自のもので、二等辺三角形による測量技術を使って神社を建てる場所を決めていたという自身の学説に確信を持ちます。測量の起点は山(霊山)としてその距離は深夜、かがり火を焚いて山と山の位置を特定し、距離を測ったという事でした。

長らく謎とされてきた旧田無神社(尉殿大権現)の跡地。それを古地図から除地を発見し、その地番を現在に当てはめて場所を特定したということは郷土史に残る大発見でしょう。先代の宮司に伝えると「ずっとわからなかったことが明らかになって当社としては大発見です!」と喜んだということですが、これは郷土史のどこにも記録されていないので、岩田さんがこの学説の研究や発表を辞めてしまうと消えてしまう史実です。

先代の宮司さんと二中のそばに「ここに旧田無神社があった」と説明板を設置しようか、という話にもなったようですが、予算がないなどで立ち消えになってしまったようです。

詳しい理由は分かりませんが、岩田さんが専門的な学者でないから独自の学説を信用してもらえないなら、こんなに残念なことはありません。エビデンスはしっかりあるのですから。考古学と同じ、番地から旧跡地を発掘したわけです。

なんとか記念碑のようなものが作れないものか、と講演を聞いて考えていました。(了)





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