自分自身になるということ。
にんげん、自分自身になれたら、
きっと世界で苦しむことは無くなると思うんだ。
逆に、自分自身ではないからこそ、人は苦しい、そして人生も苦しく感じる。
では、自分自身であるとはどういうことだろう。
このために、逆を見てみたい、
自分自身ではないということは、どういうことか、と。
高級バッグをたくさん持って、顔を整形して、学歴詐称、カンニングして良い点をとったり、詐欺で儲けたりすること。高いご飯をたくさん食べて、かっこいい周囲からも憧れられるような恋人を持つこと。
まあなんでもいい、死して失うことの全ては、自分自身ではないのだ。
さっき書いたのは、まあそれなりに派手なものであるが、派手ではないものでも、自分自身ではない。
自分自身ってのは、何かを所有することではないのは当たり前だ。
カバンは所有するものであって、それを持つものは所有しているものだ。
だから、たくさんのものを手に入れたりすることは、自分自身から離れてしまうことだと言えるだろう。だからこそ、人は、どれだけ成功しようとも幸福にはなれないのだろう。成功を目指すということは、自分自身が満たされていなくて、不幸だからこそだ。
今の時代、そんなふうに、成功を諦めてダラダラして、そして成功を妬んでいればルサンチマンだの、負け組だの言われるかも知れない。だが、僕はそれで構わない、なぜなら、自分自身でいることの幸福を知っているからだ。
僕の場合、自分自身と出会えたのは、瞑想だ。
瞑想は素晴らしいものだ。誰でも、いつでも、どこでも、お金がなくてもできるものである。物質的な幸福と違って、誰にでも与えられている、心、精神に向き合うことで、誰でも幸福になれるんだ。
心に向き合うと、自分に辿り着く。例えば、瞑想に集中できない自分を責めている時、それは自分自身だろうか。いや、そうではないと答える人が多いはずだ。それは考えだし、考えはいつか消えるものだから、と。
そしてそれは、最初の物質的な幸福と同じものだ、なぜなら、物質はいつか消えるから。消えるものは、自分ではない。
だから、肉体も自分ではない。じゃあ、何が自分なのだろうか。
それは、「それを考えている自分」こそが、自分なのだと思う。
何かを考えるときの、土台、根底になるもの、それこそが自分だし、それは消えないと思うんだ。もちろん、死後にどうなるかはわからない。だがしかし、それは少なくとも、物質や肉体よりも、残るものだと思う。