20歳を迎えた亮太へ

いつか君が、この文書を見つけますように。

君は覚えているだろうか?
春も近づいていたあの日、母は、君と洸介を連れて、海に出かけた。キラキラしてキレイな海だった。その光が、海の中へと誘うように手招きしているように見えた。              先の見えない洸介の介護、身内からの心無い行為や言葉にも疲れ、
「3人で死んじゃおうか?」
と聞くと、君は泣きながら母の足にしがみつき
「かあちゃん!しんじゃだめ!りょんもしにたくないよ!」
と叫んだ。

君に連れ戻された。

あの時、君にそう泣かれなければ、君の20歳の誕生日を迎える事も、洸介の高校卒業も、無かったのだろう。

亮太、この名前は、父と母が生まれる直前まで悩み、さらに姓名判断でも見てもらって確認して、付けた名前である。誰からも、間違えられたりせずに呼んでもらいやすくて、たくさん呼んでもらって可愛がって貰えるように、そんな願いも込めて付けた名前。色白で、いつもニコニコしていて、天使のような悪魔だった。それは今でも変わってないな…

洸介が生まれ、想像していた生活とは全く異なる毎日に、母はたびたび、亮太に当たる事もあった。自分でもわかっていた。こんな小さな子に、大人の自分が当たっても…でも、亮太、それでも君は母のすべてを受け止めて、一緒に泣きながら、小さな身体で母を抱きしめてくれたのだ。君が「母ちゃん」と呼んでくれるだけで、私の子供だという確信と、この子だけは大人にしなければ、おじいさんになるまで生かさなければ、そう思っていた(今だって思ってるさ)。それは、洸介がいつ生命の灯火を消してしまうかわからないような毎日の中で、亮太だけは!亮太だけは!と言う心からの願いでもあった。洸介の世話は、他の大人にも時に頼み、できる限り、亮太との時間を作るようにした。それは、自分の経験もあったからだ。弟や妹が入院すると、母親はずっと病院に付添いで家にいなかった。家では父親や祖母から甘えるな!と怒られ、やっと母親が帰って来たと思えば、また入院。ついに保育園に行けなくなった。母親が恋しくて恋しくて、帰って来ても、甘える事もできず、抱きしめてももらえず、今の自分の心の歪みは、この時からなんだろうとずっと考えていた。だから、自分の子供には、そんな気持ちをさせたくなかった。いっぱいいっぱい抱きしめて、寂しい思いをさせたなら、もっともっとぎゅっと抱きしめてやる!どうだっただろうか?できていただろうか?なんなら今でもしてやりたいのだが、やらせてもらえないだろうな(笑) 

そんな中でも、保育園に行ってもらわなければ、いよいよ大変になる頃がやって来た。おむつを外す練習も、なかなかうまく行かない。入園前に、園に相談すると、3月生まれなんだから心配せずに、紙パンツでいらっしゃい!と言われ安心したのだが、紙パンツで行くのイヤ!って言い出すので、仕方なく練習。なんとか外したけれど、心配なので、替えのパンツには、普通のパンツと紙パンツを何枚も持たせた。パンツの替えの話には、大きくなっても事欠かないのな。紙パンツは、御守りだった。御守りはたくさん持っていたけれど、ブタさんのキーホルダーは、母ちゃんがいなくても母ちゃんと一緒だから心配しなくていいんだよ、と何回も何回も言い聞かせて、活躍してもらっていた御守りだったね。             年少組では、いちばん生まれも遅く、小さかったが、元気いっぱいでのびのびと、そして先生方からは、大変可愛がって頂いて数々の伝説を作ったものの、母はとても助けて貰った。どんなに小さなリュックサックを選んでも、肩紐がズリ落ちてしまうので、いつも両手を上げて走って保育園へ。保育園に行くまでは楽しく走っているのだけれど、いざ母が帰ろうとすると、いつも泣いて離れられなかった。時には先生方が3人がかりで君を引き離し、                 「お母さん、行ってらっしゃい!」       と送り出してくれた。洸介さえ障害児でなかったら…洸介さえもっと健康な子であったら…そんな気持ちと亮太の泣き声に後ろ髪を引かれながら病院に向かった事も一度や二度ではない。でも、母の姿が見えなくなると、亮太は自分の中で納得して、遊び始める事ができると言うのも、先生からの報告と、コッソリと洸介の散歩がてら覗きに行っては知っていた。             「かあちゃんは、こうくんで、たいへんだもんね」                    と亮太が言っていたと先生が涙ぐみながら教えてくれた。亮太は我慢してくれていた。                  そして、年中組になると同時に転園。ダンゴムシしか友達がいなかった亮太にも、とうとうダンゴムシ繋がりで、仲の良い友達ができた。ダンゴムシ様々である。虫が好きなのに触れずに泣いていた子が、親が悲鳴をあげるくらい、どんな虫でも素手で掴み、母がいなければ、友達の家に遊びに行けなかったのが、遊びに行けるようになった。友達なんておらんくていいもんと言っていたのに、遊べる友達を探して出かけるほどに、逞しくなっていくのは、これからだった。

小学校では、いろんなトラブルを抱え、乗り越えながらも、その天真爛漫さで、しっかりした女子が                     「もう、亮太!ちゃんとやって!」       と怒りながらも世話を焼いてくれる、亮太曰く〈教室のお母さん〉が何人か出現し、ありがたいやら恥ずかしいやら…中には、ワタシ、お母さん役!と笑顔で自認している子もいて、これはこれでアリなのかもしれんと、母は自分に言い聞かせたものだ。彼女達も、今は誰か全く分からないくらいキレイな娘さんだ。亮太のお世話をしていたなんて、口が裂けても言えないどころか、超笑い話になるんだろうな…             3年生になると、他の誰よりも特殊な学校生活を送る事になる。洸介が入学した事により、毎日学校には、父を除く家族全員が揃っていた。朝「行ってらっしゃい」と送り出しても、学校の階段で、普通にすれ違うのだ。            その前年、亮太が友達と校長室へ        「校長先生!洸介を入学させて下さい!」    と頼みに行っていたと、当時の担任から聞いた。君が「(洸介も同じ学校に来て)いいよ」と、さも(なんで?なんでそんな事聞く?)みたいに、さらっと言ってくれなかったら、身体も動かせなければ、話す事もできない洸介が、同じ地域の仲間達の笑い声の中には入る事ができなかったのだ。兄として、それなりの悔しさや、悲しさ、苦労もあっただろうが、家に来る友達は皆「洸介君、元気?」などと声をかけてくれる子がほとんどで、年少組の保育園時代、園長先生が       「この子は徳(得?)のある子だよ」      と先生方に言っていたと聞いたのを思い出した。亮太のおかげで、亮太の学年にも、洸介はしっかり認知され、亮太の弟だと、隠す事もなく時を過ごせたのである。亮太が、洸介が同じ学校に通う事を拒否したならば、洸介だって、こんな楽しい時間は過ごせなかったのだ。それはすべて、亮太のおかげだった。

中学に入学する前、そうだな、卒業式が終わってすぐに洸介はまた長期の入院となり、しかも、それまでの病院では対応できなくなり、救急車で深夜に他の病院に転院させられるような状態に陥った。転院先でも集中治療室へ入り、一般病棟に移る事ができたのは、ちょうど亮太の中学生としての生活がスタートした頃だった。今までの病院より、また少し遠くなり、面会もきょうだいはできず、亮太の事はばあさんに頼むしかなかった。ちょうど母が一旦帰宅した日、君は、大雨に降られて、リュックの中の新品の教科書達がぐっしょり濡れてベロベロになってしまい、途方に暮れていた。ドライヤーと新聞紙で何とか乾かしたのを覚えているか?環境も変わって不安な中、さらにこんな事になってしまい、強がっていたけれど、悲しかったろうね。あの日、一緒に教科書を乾かしたのはほんの短い時間ではあったけれど、亮太に少しでも、母はいつでも助けてやるぞと安心して貰えたらいいなと思う気持ちと、状態が良くない洸介に、母はずっと付添いで、どうしようもなくやり切れない心を切り替える為の親子の時間だった。

亮太が中学3年生になると、また毎日、学校に母と弟がいるという、何とも不思議な学校生活が始まった。中学3年生にもなると、母や弟に近寄らないかと思いきや、弁当の日は、洸介が来る時に持って来てくれれば取りに行くわ!とか、水泳の授業が終わると水着を持って帰ってね!と置いて行くとか(洸介の教室は、プールの隣だった)、面白可笑しく楽しく過ごしていたようだ。担任の若い先生も、3年間同じで、亮太をのびのびとさせてくれた。感謝しかない。この辺りは、保育園児の時から全く変わっていなかったのかもしれない。のびのびさせ過ぎだったのかもな…

さて、亮太の進路・高校編である。母は、自分の進路を、カネに目が眩んでしまった父親に勝手に変えられてしまっていた。反発できるはずもなく、当時の高校の監督の「東京の大学に行かせてやる」という条件で泣く泣く進路を変更した。結局、行かせて貰えやしなかったが。親が決めるものではないはずなのだが、それがまかり通るような家庭だった。だから、公立か、お誘いを受けた私立か、しっかりと亮太自身に決めさせたかった。亮太は、高校も自分ではっきりと決めた。迷いはあったようだが、先生にも相談に乗ってもらい、自分で決めた。亮太の凄い所は、さらにその先まで、大まかにでも考えていた所。高校3年間は、部活動ではとても苦労した。でも、それでも必ず助けてくれる人がいたよね。手を差し伸べてくれた人がいたよね。そういう人達がいたと言うのは、亮太が一生懸命やっていたからなんだと思う。その苦労は、この先絶対役に立つ。あの時間を過ごせたのだから、これくらい何とかなる、そう思える時は必ずある。それは母が保証する。母は毎日、弁当を作りながらお祈りをしていた。無事に帰って来ますように、このひとくちが亮太を守ってくれますように、と。それくらいしか、してやれる事なんてなかったから。

亮太の進路・大学編。目標があって選んだ大学、学部。でも、目標は少しずつ修正すれば良いのである。最終的に、全く違う事になったって、この4年間でそう考えられるようになったのだから、見方が変わったと言う事だし。視野が広がったって言えば、カッコいいかな。大学の4年間は、高校を出てすぐに社会人になった友達よりも、自分を磨くための時間を与えられたと考えている。せっかくなので、勉強は当然ながら、バイトにも、恋にも、一生懸命になって欲しいものである。本もたくさん読んで欲しい。母の大学時代は、スマホとか、パソコンとか、ケイタイすら無い時代だったので、カバンには必ず時間潰しの為の本が入っていた。すっかり読まなくなってしまった今は、語彙力と言うのか、ここでどううまく言葉で表すとぴったりするだろう?と考えても、全く浮かんで来ないのだ。うまく言い回せない。書く事が嫌いではない母にしたら、ショックだった。あれ?本を読まなくなると、こんなにも言葉が思い浮かばんくなるのか…と。言葉が思い浮かばないとなると、自分の気持ちをうまく伝えたり、表したり、理解する事もできない。だから、キレたりしてしまう。通じないから。小説も、エッセイも、漫画も、何でも読むといい。            ひとり暮らしも、もう2年経とうとしている。彼女がいつも部屋にいるのは知っているので、目を瞑るが、とりあえず、ひとり暮らしをしているという体(てい)で進めよう。今の時代は、例えば結婚しても、共働きが大多数。母は、介護があるので仕事ができないのであって、我が家がちょっと違うだけなのだ。が、うちにいるのだから、うちの事はやれるだけやる、その分、父には外で働いて来てもらう。2人で働いているのなら、2人で分担して家の事をするのは当然だ。その為には、料理も、洗濯も、掃除も、風呂掃除も、ゴミ出しも、お膳立てしてもらってやるのではなくて、ゼロの所からやれるようにしておかないとダメなのだ。ゼロって?って思うでしょ?料理は、材料から調味料から、調理器具から必要で、それをどこで買ってどこにしまってあるかとか、洗濯だって、洗剤や柔軟剤やらを買ってくる事ができんきゃいかんし、ゴミ出しだって、何曜日が燃えるゴミの日で、何曜日が資源ゴミかを知らなければ出せない。そこまでできて、やっと家事の分担が成立。作るだけじゃあかん、洗濯して干すだけじゃあかん、ゴミの日に出して来てって渡された袋を出してくるだけではあかんのだ。名もない家事とはよく言ったものだと思う。家事は、その名もない家事の上に成り立っている。だから、ひとり暮らしで、生活する基礎を作っておいて欲しい。その為のひとり暮らし。

そして今日は、20歳の誕生日。ここまで、いろんな事はあったけど、あっという間だった。20年前の今日の事も、少しも忘れていない。今でも変わらず、可愛く思うし、心配である。母親なんて、そんなものだ。仕方ない。だから、元気で、健康でいてくれればいいのだ。親より先には絶対に死ぬな、これだけは守って欲しい。いつも母がいうように、「どうせ…」「どうせ俺なんか」と言うな。どうせって言っちゃったら、その次に〈〜なら〉って付けろ。そう、〈どうせなら〉って言ったら、そこで終わりじゃない。次に進めるんだ。ずっとニコニコしとる必要もない。泣きたい時は泣かんとダメだ。怒りたい時だって怒らんとダメだ。でも、その後で、ちゃんと涙は拭け。振り上げた拳も降ろせ。それから歩き出せ。自分を大事にしなさい。卑下しちゃあかん。父も母も、そんな自分で自分の価値を下げるような子は、作った覚えも生んだ覚えもない。大事な人を守るには、まずは自分を守れるように、自分を大切に。

もっと、もっともっと、言っておきたい事もあるし、食べさせたい物もあるし、やってやりたい事もあるのだけれど、母の記憶と育て方が正しければ(一般的にはたぶん相当正しくないだろうな)、君のアタマの中に入ったのは、3割くらいだろう。上等だ。今の父や母くらいになったら、ようやくわかるくらいだな。いいよ、想定内だから。ただひとつ、必ずアタマに残しておいて欲しいのは、


20歳、おめでとう。元気で、健康でいなさいよ、それがいちばん。それしか勝たん。        

                                   


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