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私が個物であることから、外界の存在の不可欠性という「タテ問題」と、私以外の精神という「ヨコ問題」の両方をいっぺんに捉える
本記事は私のXのポストを修正したものです。以下、本文。
「名」とは「xxxxであるものは「xxxxである他のものがあってはならないxxxxであるもの」である」を満たす名詞xxxxである。「これ」も「このライオン」も名である。 全ての名の集合が現実である。 名によって指されるものが個物である。名によって指される全ての個物の集合が世界である。
「名」とは何かについては下の第1部第1章1-1参照。 また、「これ(このライオン)」は「私が出会う他のもの(ライオン)があってはならない私が出会うもの(ライオン)」である。下の第3部第2章2-1参照。
私・今・神という「名」~「私」という名を発端にして~
名詞が名となるための上記条件については、下の第1部1-2を参照。
「私」が「ありありとしている」ことについて
「私」は「ありありとしている他のものがあってはならないありありとしているもの」であり、名である(『「私」が「ありありとしている」ことについて』第1部1-2参照)。したがって、私は個物である。
さて、私は存在する。私が存在するので、私以外のありありとしているもの(私以外の精神)はあってはならず、ありありとしているものはすべからく私でなければならない(ここで、永井均の言う「ヨコ問題」とつながる)。また、ありありとしているものは、すべて私のうちにあると言える。
では、私の内(うち)において、ありありとしているものからなるものが複数集まって、世界を成すということがありうるか。ありえない。なぜなら、ありありとしているものが複数あれば、私の他にありありとしているものがあることになるが、それはあってはならないからである。
よって、もし世界が複数の個物から成るなら、私の内(うち)にない個物が存在することになる(ここで、外界の存在という、永井均の言う「タテ問題」の一つにつながる)。
ちなみに、「現実の/現実に」とは、「個物である/個物において」ということである。「現実のドラえもん」とは「個物であるようなドラえもん」のことであり、これは存在しない。「ペガサスは現実には存在しない」とは「ペガサスは個物のうちには存在しない」ということである。