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退屈な日常は「違和感への無関心」から始まる

どうもー
メンタルコーチングやってますニシダです

多くの人と人生の大きなテーマを話すのですが、
「退屈な日常」という悩みを取り扱うセッションがたりました。
(この記事では、そのセッションの中身には触れません)

考えてみれば、毎日が同じことの繰り返しでも
楽しんでいる人もいれば、
退屈に感じる人もいます

当の本人が満足しているか?が
何よりも大切な物差しなのであって、
他の人から見て楽しそうかどうかは
きっと関係ないですよね。
(この記事はその前提で進みますよ?)

では、この記事のタイトルに掲げたような
「退屈な日常」とは
どんな風にもたらされるのか?
どうやって回避していけばいいのか?

について考えてみました。

考えを書き進めていくと、
「慣れきった人間関係が違和感を無視させて不感症にしているんじゃないか」という結論に辿り着きまして、
なぜ人間関係は煩わしいのか?
人間関係の断捨離って何なんだ?


そこら辺りも書いてみます


1人の人は悩まない

「人生の悩みの多くは、人間関係の中に生まれる」
というのはアドラー心理学の考えで、
私もこれにほぼ賛成です。

人間関係の悩みについて、
わかりやすい例を挙げると、

・上司や同僚とうまくいかない
・夫と分かり合いたいのに難しい
・親との関係がつらい

というのがよく出てきます。
(メンタルコーチングをやってて頻出します)

じゃあ例えば、これやらどうか?↓

余命5年を宣告されて絶望している

これは一見、他人が関係なさそうですが、
「自分はまだまだ生きて、自分以外の誰かと幸せになっているだろう」という期待や
「あの人のために,もう少し生きていたかった」というふうに悩んだりするパターンがほとんどです。

これらの人たちが
「悩むくらいなら人間関係は必要ない」
と決心して縁を切ったり、
「そもそも自分には他者との繋がりが一切必要ない」
と確信して山奥で自給自足をするならば、
多くの悩みは消えるのではないかと思います。
(厳密にはこれでも完全には消えないと思ってますが)

とはいえスパッと人間関係を清算することは、
そう簡単なものではありません。
勢いに任せた決断は、
余計に自分を傷つけることもあります。

「うまいこと共存できないか」
「今よりも座りの良い関わり方って無いのか」
というところを模索するのが、
"あくまで初手"としては
現実的なアプローチなんだと思います。


違和感を無視しないで

そもそも人間関係の悩みって何?
という話もしてみましょう!

日々激しい衝突がある
冷戦状態
こちらだけが困っている
こちらが傷つけてしまっている

色々とあるでしょう。
これらは全て、
「違和感を積み重ねた結果」
なんじゃないか?と思うわけです。

「......なんかおかしいぞ!?」
「このままでは、いかんな〜」

と思った時に、すぐに
その違和感を適切に相手に伝えられていたら
小さな糸の絡まりは解けていたかもしれない

例えば私は高校生のとき、同級生からこんな話を聞いたことがあります。

昔、父と大喧嘩したことがあって、
もう理由はよく覚えてない。

次の日の朝、父に無視されているような気がして、
その日から自分から話しかけたくなくなった。
自分も無視するようになった。

覚えてる限り、もう4年くらいは
父と会話をしていない。
同級生のTくん

この話を聞いた時は、本当にびっくりしました。
でも現実にそういうことがあるんですね。
その友人は、すごく淡々と話していたのを覚えています。

「あの喧嘩」と「翌日の無視されてるんじゃないか」という想いを抱えて過ごした4年間はどんなものなんだろう。

「さすがに会話しないのって、おかしいと思うんだよね」
「寂しいんだよね」
「これからもイヤなことはイヤと話せる関係でいたいんだよね」
と伝えることができていたなら。

相手に快く受け取ってもらえなかったとしても、
自分の違和感を否定せず、放置せず、
無視せずに自分を大事にできていたなら。

違和感は肥大化しきる前に
「対処できる範囲のもの」として
取り扱えるんじゃないかと思ったりします

違和感を長い間、放置していると
伸びきったゴムみたいに
「もともと何を感じていたのか」すらも
分からなくさせてしまうのかもしれません。


なぜ家族、職場の関係はもつれやすいのか

大きくは2ついると思います

1つは上下関係と生活基盤の問題。

親に見捨てられたら、どうなるんだろう?
家に生活費を渡してもらえなくなったら?
上司に見限られたら?

案外なんとかなるものなんですが、
想像を絶するものに対して、
不安と恐怖を抱くのは自然なことです

「案外なんとかなるんだな」
という開けた感覚を獲得するには、
普段から自分が自分の人生を生きていくという
明確な信念が必要なのでしょう。
信念は覚悟と言い換えてもいいのかもしれません。

そんな「自分の人生を生きる信念?覚悟?メンドクセーのよ!」という方は、
なんだかんだで今いる場所が「満点じゃないけど飛び出す勇気もない」のだと思います。
それを「今いる場所よりも、もっと自分にフィットした場所があるんじゃないか?」と感じ始めているのなら,少しずつ踏み出して(はみ出して?)みても良いと思いますよ。

2つ目は、慣れ。言い換えると無関心。

家族、親子、夫婦、会社の上司部下、同僚
こういう人間関係は、
「近すぎる」がゆえに慣れが生じやすい。
ツーと言ったらカー。

別の言い方をすると、
相手が何を考えているかを予測しやすい
ということです。

予測することは悪いことではありません。
むしろ過ごしてきた時間が長ければ
予測できない方が難しい

本当の問題は、
「私の予測どおりに違いない」と
思い込んでしまう点にあります

この慣れのせいで、

相手が違和感を覚えているわけがない
→話を聴かない関係

自分の中にある違和感は相手にとって不都合なものに違いない
→聴いてもらうことに意味がない

という経験が繰り返され、
思い込みが強化されていくことになります。

違和感はある日突然にやってきます。
昨日まで毎日食べていたものが
今日から欲しくなくなったりします

今まで当たり前に使っていた言葉に
なんとも言えない気味の悪さを覚えたりするのです

それは何もおかしなことではなくて、
その違和感を、まず自分が認めてあげる。
ノートに書いたりして、
意識に置いてみる。眺めてみる。

伝えたい人がいるなら、
伝えてみる。

この違和感をスルーし続けていると、
自分を取り囲む人々から
「いつも通り」であることを期待され、
いとも簡単に退屈な日常が製造されます。


人間関係の断捨離は必要ない。自動調整機能を信じよう

自分の違和感を眺めて、
伝えたい人に伝えていく。

たったそれだけのことができないのは、
周りの慣れきった人間関係に居続けることのメリットが
違和感を受け止め続けるデメリットよりも優っているからでしょう。

例えば、だいぶ前の話ですが、
私は晩御飯を作ってくれている妻に、
「お腹いっぱい食べると具合が悪くなるから、
思ってるよりも少し少なめに作って欲しい」
と伝えたことがあります。

ご飯を作ってくれていることへの感謝と
自分が感じる違和感は別のもので、
それを一緒に伝えました。

妻は「一度に作る量はコントロールしにくい」「食材廃棄が出そうでもったいない」と私が知らないことを教えてくれて、
食卓に出さない分を作り置きにしましょう。
という結論になりました。
めっちゃ建設的なやりとり。

本当に簡単なやり取りでしたが、
私がこの違和感を伝えていなかったら、
私は「無視できなくもない程度の具合の悪さ」に自分を慣らす日常を受け止めることになっていたでしょう。悲しい。

こういう慣れや、違和感への無関心が
自分自身や、生活への無関心を招き、
無力感を確実に作っていくんじゃないかと思えてなりません。

自分がそうしたい、と思っていることについて
伝えることを遠慮するような関係は
誰がこの人生の主役なのか分からなくてなっていきます。

全員がそれぞれの人生の主役であり
それぞれの価値観を全うする権利があります。

もし自分の価値観が、
今自分の周りにいる人たちと
どうしても折り合わなかったら、
自然と周りにいる人たちは
離れていってくれます

わざわざこちらから「縁切りじゃ!」と、
威勢よくしていく必要はありません。

断捨離のように意志をもって
断絶しないといけないのは、
「自分の所有物」だけです。

人間関係は誰の所有物でもありません。

自分と他者との間に存在しているもので、
勝手にチューニングされていきます。

自分はどんな世界を生きていきたいのでしょう。

自然体でいることで
自分の周りの世界が自然と整っていくとしたら
「生きやすそう」に思えませんか?

あの同級生が父と話しているのか、
まだなんとなく繋がっているのか、
絶縁したのか
今は分かりません。

何が正しいのか、
何が生きやすいのか、
結論は自分で出していく他ないからです。
(この記事はその前提で進むって最初に書きましたよね)

自分にとってしっくりくる生き方を、
多くの人に叶えてほしいなと願っています。

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