Desire: Drive=Truth: Knowledge By Slavoj Zizek 試訳

欲望:欲動=真理:知 (1997)スラヴォイ・ジジェク

 ジャック=アラン・ミレールが指摘したように、「分析の構築」の概念は以下のような(疑わしい)主張に依拠しているわけではない。それは、分析家は常に正しいという主張である(もし患者が分析家の提示する構築を受け入れるのならばそれは単刀直入にその正しさの裏付けとなり、もし患者がそれを拒絶するならばこれは抵抗の徴候であり、従って構築が真理に達したことを裏付けている)。趣旨はむしろその反面である——「分析主体が常に間違っているのは当然である」。この点を理解するためには、知と真理の一対に相関する、構築(construction)とその対、解釈(interpretation)との間にある決定的な区別に焦点を当てるべきである。すなわち、ある解釈は分析主体と分析家との間の認識の間主観的な弁証法に常に嵌め込まれる身振り(gesture)であり、いくつかの特別な無意識の形成物(夢、症候、言い間違い)という適切な真理の効果をもたらすことを目的としている。主体は解釈者によって提示された意味作用において、自分自身を「認識」し、まさにそれを主体化し、提示された意味作用を「わがもの」として受け取ることが期待される(おお、神よ、それは私だ、私はまさにこれを欲していたんだ)。見事な解釈の成功はこの「真理の効果」によって、分析主体の主体の位置に与えた影響の程度によって測られる(これまで深く抑圧されたトラウマ的な出会いの諸記憶を掻き乱すこと、激しい抵抗を誘発すること)。それと好対照に構築(例として、根源幻想の構築)は知の地位をもっている。それは主体が自身についての真理として、また自分の存在の最深部にある核を認識する真理として、主体化や想定することが決してできない知の地位である。構築は純粋に論理的・説明的な仮定であり、フロイトが強調したように、あまりに根源的な無意識であるために思い出すことのできない「子供が叩かれる」という子供の幻想の第二段階(私が父に叩かれる)のようなものである。

第二段階はすべてのなかで最も重要で最も重大である。しかし、私たちは、ある意味、それは現実には存在しなかったと言うかもしれない。それは決して想起されず、意識的になることはなかったのである。それは分析によって構築されたものであるが、だからといって、必然性がないわけではないのである。
Sigmund Freud, "A Child Is Being Beaten," Standard Edition, vol. 10, p. 185.
邦訳:中山元訳、 「子供が叩かれる」p.83。フロイト「自我論集」収録 、ちくま学芸文庫、1996年。

 この段階が「現実には存在しなかった」という事実はもちろんラカンの現実界の地位を指し示している。この段階で私たちがもつ知は「現実界の知」、すなわち「無頭の(acephalic)」主体化されない知なのである。しかし(あるいは、まさにその理由で)それはある種、主体の存在のまさに核を表す「汝、かくあり」なのであり、その想定は私を「非主体化」する、すなわち私は私の根源幻想を、ラカンが「主体の貧困」と呼ぶものを経験する限りにおいて、想定することができるだけなのだ。また別の言い方をすると、解釈と構築は互いに症候と幻想のようなものの上に立っているのである。症候は解釈され、根源幻想は(再)構築されるのである。この「無頭の」知の概念は70年代の初頭に知と真理の関係が大きな変遷を経験した後のかなり後期のラカンの教えにおいて現れてくる。

 この「初期の」段階において、1940~60年代に、ラカンは言表行為(enunciation)の主体の位置を無視する「本物でなく」対象化している知と、それによって人が実存的に束縛され影響を被る「本物の」知との間の規範的な哲学における対立の内部で変遷する。精神分析の臨床ではこの対立は強迫神経症とヒステリーの間の明白な対照によって最も見事な模範例とされる。強迫神経症者は「真理のみせかけのなかで嘘をつく」のである。事実の確実性の水準では彼の陳述は概して真実であるが、彼は自分の欲望についての真理を隠蔽するために事実の確実性を利用するのである。例えば、ブレーキの不調が原因で私の敵が交通事故にあったとき、みんなに私は決して彼の車のそばにいなかったので不調の責任はないと説明するために私は行動するのを厭わない。これは真実なので、この事故は私の欲望を実現したという事実を隠すために、私はこの「真理」を広める。反対に、ヒステリー者は「嘘のみせかけのなかで真理を伝える」のである。私の欲望の真理は私のパロールの「事実の正確性」の歪曲のなかでそれ自体をはっきり表現するのだ。「それでは、このセッションを開会します」という代わりに、私が「それでは、このセッションを閉会します」と言うとき、私の欲望は明白にそれ自体が現れる。精神分析的治療の目的は、かくして事実の確実性から真理を知らず知らずのうちに述べているヒステリー者の嘘へと(再)焦点化し、そして真理の場に住まう新たな知、真理を隠蔽する代わりに真理—効果を起こす知、すなわち50年代のラカンが「充実したパロール」と呼んだもの、主体の真理を響かせるパロールへと進展する。この真理の概念はもちろん「事実の真理」を嫌悪するキルケゴールからハイデガーまでの長い伝統に所属している。

 60年代後半の初め、ところが、ラカンは満足を生じさせるある種の「無頭の」知としての欲動にますます注意を集中させる。この知は真理との固有の関係や言明という主体の位置を含んでいない。それは言表行為の主体の位置を隠蔽するからではなく、それ自身主体化されたものではなく、また存在論的に真理の次元に先行するからである(もちろん存在論的という言葉が問題となるのは存在論が定義上真理に関わる言説であるためである)。真理と知はかくして欲望と欲動として関連づけられる。解釈は主体の欲望の真理を目指される(欲望の真理は真理に向けた欲望である、と擬似ヘーゲル的な仕方でそれを言いたくなる)一方、構築は欲望についての知の梁(know-ledge)を提供するのである。このような「無頭の」知の範例的なケースは(死の)欲動という「盲目的な執拗さ」を例証する現代科学によって提供されていないのだろうか²?現代科学はその道をたどる(微生物学、ゲノム操作、素粒子物理学において)。代価に注意を払わずに——満足はここでは知そのものから与えられ、科学の知が役立つと想定されているいかなる倫理や共同体の目的から与えられるわけではない。あらゆる「倫理委員会」は今日ありふれており、そしてゲノム操作や医療実験を適切に指揮するための規則の確立を試みている。それらは究極的には、内在的な限界(要するに科学態度の内在的倫理)があることを知らないこの科学の止めようのない欲動-推進を、「人間の顔」つまりある限界を与えるために、人間の目的という領域=拘束のなかに再登記する必死の諸企図なのではないだろうか?今日のありふれた陳腐な知恵はこうだ、「科学装置を通して自然を操作するわれわれの並外れた力はわれわれの有意義な生活を営むための能力を凌いでおり、この莫大な力を人間に利用させている」。かくして「欲動の追求」の適切な現代倫理は伝統的な倫理と衝突する。それによって人は適切な尺度の基準に調和して生活を営み、その全ての側面を〈善〉というある全—包含の概念より下に置くように指示されている。問題となるのはもちろん、これら二つの倫理概念の均衡はまったく到達されることはないということである。科学の欲動を生活世界の束縛のなかに再登記する概念は最も純粋な幻想——おそらく根源的にファシスト的な幻想——である。この種のいかなる制限も科学の内在的な論理と性質を異にしている。科学は現実界に属し、享楽(jouissance)という現実界の様式として、象徴化の様相、社会生活に作用するであろう方法とは異なるのである。

注2:Jacques-Alain Miller, "Savoir et satisfaction," in La Cause freudienne 33, Paris 1996.を参照せよ。

 もちろん、科学的な装置の具体的な組織はその最も抽象的・概念的なシェーマまで、社会的に「調停されている」。しかし、現代科学に対する家父長制の、ヨーロッパ中心の、機械論的な、自然搾取の偏見を識別するすべてのゲームは「実際には科学と関係がない」。科学とは科学的な機械の操作において引き起こされる欲動である。ハイデガーの位置はここではすっかり両義的であるように思われる。おそらく、科学は真理の次元をア・プリオリに捉え損なっているというテーゼの最も精巧な提唱者として、彼を退けることはあまりにも簡単なことである。「科学は思考しない」と彼は主張しなかっただろうか?すなわち定義上、科学はその哲学的な基盤、その機能の解釈学的地平を反映することができず、さらにはこの[科学の]無能力は、行為不全の役割を演じることは決してなく、その潤滑な機能の可能性の肯定的条件であると彼は主張しなかっただろうか?彼の要諦は、むしろ現代科学はそれ自体、ある限定された、存在的な「社会的に条件づけられた」選択(ある科学団体の利益を表明すること)に還元することができず、むしろ私たちの歴史的時間の現実のである。それは、(「進歩的」と「反動的」、「テクノクラティック」と「エコロジカル」、「家父長制」と「フェミニスト」)という象徴的宇宙のあらゆる可能性のなかで「同一のまま存続する」ということである。かくして、ハイデガーが十分に承知しているのは、どの科学が西洋資本家の支配の道具、家父長的抑圧の道具など、であるかに応じたあらゆる流行の「科学批評」が不全で科学的欲動の「硬い核」を問題にしないままにしている、ということである。ラカンは私たちに科学がもしかするとより根源的な意味では「現実」かもしれないと付け加えることを余儀なくさせる。それは〈存在〉の時代——すなわち、存在の言説の歴史的に決定された地平とは本質的に異なる機能をもつ時代——という歴史性のハイデガー的意味においてさえ、厳密に「非歴史的な」言説の最初の(そして、おそらく特異な)事例であろう。まさに科学は「思考しない」かぎりにおいて「知っている」のである。真理の次元を無視することで。そしてその科学は最も純粋な欲動のようなものである。ハイデガーに対するラカンの補足はこうであろう。どうして現代科学の仕事において「〈存在〉の忘却」は最も「危険なもの」としてのみ知覚されるのであろうか?それは「自由にする」次元をも含んでいるのだろうか?科学の解放する機能における存在論的な〈真理〉の宙吊り(suspension)はすでに形而上学的閉包(metaphysical closure)の「経験」そして「克服」ではないのだろうか?

 精神分析では、決して主体化不可能なこの欲動の知は主体の「根源幻想」、彼または彼女の享楽への接近を統制する特定の定式、という知の形態を想定している。つまり欲望と享楽は本質的に敵対し、相反し、対等なのである。欲望の存在理由(raison d'être)(あるいはリチャード・ドーキンスの言葉を用いると「効用関数(utility function)」)はその目的を実現せず完全な満足を見出せないものの、欲望としてそれ自体を再生産するのである。それにもかかわらず、いかにして欲望と享楽を連結し欲望の空間のなかに、享楽のミニマムを保証することが可能であろうか?これが可能になるのは、両立しない欲望と享楽の領野の間を調停する有名なラカンの対象aによってである。いかなる正確な意味において、対象aは欲望の対象=原因となるのであろうか?対象aは私たちが欲望するものではなく、私たちが追うものでもないが、むしろ私たちの欲望を動かせるもの、私たちの欲望に一貫性を与える形態的枠組みである。欲望はもちろん換喩的であり、ある一つの対象から別の対象へ転じるのである。しかし、それら置き換え(displacement)を通じてもなお欲望は形態的な一貫性のミニマム、一連の幻想的特徴(fantasmatic features)を保持するのだ。それ[=一連の幻想的特徴]はあるポジティブな対象に遭遇したとき、私たちがこの対象を欲望するようになることを保証する。対象aは欲望の対象としてこの一貫性の形態的枠組みに他ならない。以下のような少し違う方法で、同一の機制は主体が恋に落ちることを統制する。恋愛という自動症(the automatism of love)が作動するのは、ある偶然的で究極的に異なる(リビドーの)対象があらかじめ与えられている幻想の場を占拠していることに気づくときである。恋愛の自動的出現における幻想の役割は「性関係は存在しない」という事実、パートナーとの調和した性関係を保証する普遍的な定式や基盤がないということ、に蝶番を取り付ける。こうした普遍的な定式が欠けているので、性関係のために各個人は自身の幻想、ある「私的な」定式を発明しなければならない。男性にとって、女性との関係は彼女が彼の定式に適合するかぎりにおいてのみ可能であるのだ。有名なフロイトの患者である狼男の定式は「後ろから見た、四つん這いで、目の前の何かを洗うか掃除している女性」から構成される。彼にとって、この姿勢の女性の光景は自動的に恋愛を生じさせるのである。ジョン・ラスキンの定式は、古代ギリシャ・ローマの彫像のモデルに関心があるのであるが、初夜の過程のなかでラスキンは彫像にない陰毛を見つけたとき、彼を悲喜劇的な失望に導いた。自分の嫁は怪物だと確信して以来、この発見により彼は完全にインポテンツになってしまった。

 近年、スロヴェニアのフェミニストたちはサンローションの宣伝ポスターに怒りをもって反応した。それは"Each has her own factor."というスローガンを添えて、ぴっちりした水着姿の一連の女性のよく日焼けした背中を描いていた。もちろん、この広告キャンペーンはかなり下品な二重の意味に基づいていた。このスローガンは表向きには、異なる肌の種類に適合するように、異なるsun factorを顧客に提供するサンローションに言及している。しかし、その効果は明らかに男性優越主義者(male-chauvinist)の読みに基づいている。「各女性は得られる、男性が彼女の要素=因子(factor)、彼女の特別な要因(catalyst)、何が彼女を興奮させるかを知っていさえすれば!」。根源幻想についてのフロイトの主張は、各々の主体は男性にしろ女性にしろ、自分の欲望を統制するそのような「要素=因子」を所有しているということであろう。「後ろから見た、四つん這いの女性」は狼男の要素=因子であり、陰毛のない彫像のような女性はラスキンの要素=因子であった、などなど。この要素=因子の認識について楽しくなるものは何もない。この認識は決して主体化されず、不気味でぞっとするものでさえある。なぜなら、それは主体をどうにかして「剥奪(depossesse)」し、「尊厳や自由を超えて」私たちを傀儡人形のような程度にまで引き下ろすからである。

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