Les corrections de Freud 試訳
フロイトの修正
したがって、ある部分では芸術家に対するこの呼びかけがあり、別の部分では芸術の定められた体制の前提に関係したこの客観的な依存がある。残されているのは、それらの結合の特異性、美学的無意識に関係するフロイトの干渉の特異性を考えることである。当初彼が賭けていたものは、言ったように、芸術の現象の性的な病因学を確立することではない。芸術の美学的体制の生産物を規範化する無意識の思考の概念に介入すること、芸術や芸術の思考が知と非知、意味と無意味、「ロゴス」と「パトス」、現実と幻想の関係を作動させるような仕方で整理することである。フロイトはまず、その介入によって、この関係のある種の解釈を斥けることを求める。その解釈とは、現実と幻想、意味と無意味の曖昧さを使うのだが、それは芸術の思考と「空想」の表明の解釈を、生の自然な「パトス」・無意味の、純粋な明言である最後のひと言の方へ導くためである。フロイトは芸術の文献解釈学的・解明的な役割を、芸術の美学的布置に内在するニヒリスト的エントロピーに対して圧倒させることを望んでいるのである。
そのことを理解するために、フロイトの二つの巻頭の主張をひとまとめにしなければならない。私は第一のものを『ミケランジェロのモーゼ像』の冒頭から借用しよう。フロイトは形式の観点での芸術作品に関心がない。彼は「内容」、すなわち表現される意図や明らかにされる中身に関心があるのだ¹。二つ目は、『グラディーヴァ』の冒頭での、詩人たちの精神の「空想」の意味作用に関しての曖昧さに対する批判である。ただ作品の「内容」だけに向けて明言されたフロイトの偏見の意味を理解するために、この二つの明言を関係づけなければならない。この内容の探究を、周知のように、彼は一般に抑圧された記憶の発見、そして最終的に、去勢という子供の不安である出発点に導く。この最終原因の割り当ては一般に組織するファンタスム、すなわち、多かれ少なかれその主人公によって表象された芸術家のリビードが、謎の解読と引き換えに、抑圧を回避すること、そして作品のなかで昇華させることを可能にする妥協形成の仲裁によってなされる。この塊のような偏見は独特奇妙な結果、フロイト自身書き留めることを促される結果、すなわちフィクションの伝記化をもたらす。フロイトはイェンゼンのノルベルト・ハーノルトや、ホフマンの学生ナタナエルや、イプセンのレベッカ・ウェストの空想的な夢や悪夢を、現実の人物の実際的な病理学のデータ——作家たちは多かれ少なかれ明晰な分析家であったでしょう——として解釈する。その極端な例は、眼鏡屋コッポラと弁護士コッペリウスがまったくただ一つの人格、この場合、去勢する〈父〉という人格であるという証拠を持ってくる、『砂男』についての『不気味なもの』の注釈によって与えられる。フロイトは、それゆえ、症例ナタナエルの病因学、ホフマンという気ままな医師がめちゃくちゃに乱したかもしれないが、学識のある同業者にそれを隠すことまではしなかった病因学を回復させる。なぜなら「詩人の空想は素材の要素=境位を、もともとの構成を修復できないような錯綜まで、かき混ぜることはしなかった」からである。したがって、「症例ナタナエル」のもともとの構成があるのだ。作家が自由な空想の作品として与えるものの背後に、ゆがめられたファンタスムの論理と原初の不安を認識しなければならない。それは、幼いナタナエルの去勢不安、子供のホフマン自身によって体験された家族劇の表出である。
同じ足取りで『グラディーヴァ』の書籍の全体は駆け抜けられている。現実の女性を古代の形象の幻の出現としてしか見ることができないほど、石と夢の形象に熱中している若い男の「恣意的なデータ」と空想の歴史=物語の背後で、フロイトは症例ナルベルト・ハーノルトの実際の病因学——若きツォエに対する青年期の性的誘惑の抑圧と置き換え——を回復させることに着手するのである。この修正は、ただフィクションの人物の「現実的な」存在の不確かなデータに基づいて彼の論証を打ち立てることを強いるだけではない。それは学者フロイトの諸原則の観点それ自体からしても世間知らずに思われるかもしれない夢の解釈の様式をもまた巻き込むのである。隠されたメッセージは実際、その等価の現実での夢幻の形象の単純な翻訳によって手に入れられる。「あなたはグラディーヴァに興味がある。なぜなら、実際は、ツォエにこそあなたは興味があるからです」²。この解釈の短絡が示すのは、この事柄にはフィクションのデータの、臨床の症候群への単純な還元以上のものがある、ということである。フロイトは医者にとって症候群を興味深いものにするかもしれないということに対して、つまり呪物崇拝的色情狂の症例の診断に対して、異議を唱えることまでしている。彼がやはりおなじく等閑に付すのは、臨床医学を神話の歴史=物語に結び直すことを気にかけている学者に興味をもたせるにちがいないものである。それはつまり、あるイマージュに惚れ込みこのイマージュを現実的に所有することを夢見る男——ピグマリオンがこの模範的な形象である——の神話の長い歴史=物語のことである。ただ一つのことだけが彼の興味を惹くのである。歴史=物語において原因の優れたプロットを回復させることである。それは、ノルベルト・ハーノルトの幼少期という見つからない資料に差し向けられることになるかもしれないが。症例ハーノルトの優れた説明を与えること以上に、彼は文学の「発明」に与えられたイェンゼンの本の地位に反駁することを気にかけている。その反駁は根本的・相補的な二点に向けられている。まず最初に、彼が描写する「ファンタスム」は、機知に富んだ「空想」のでっちあげにすぎないという作者の主張である。次に、作者が自分の物語の与える教訓。それは、同名異人のツォエの声を通して、学者ノルベルトの狂気を嘲笑し、単純で愉快な理想の夢想の永遠性に対立させる、生身の優れたドイツ語での「現実生活」の単純な優位である。空想の作者による要求は、もちろん彼の主人公の夢想の密告と体系をなしている。そして、この体系はあるフロイトの言葉、脱昇華として要約できるだろう。もしこの事のなかに脱昇華があるとしたら、それは精神分析家よりもむしろ小説家の事柄である。そして、それは幻想的な事柄に関しての彼の「真剣さの欠如」と符合する。
フィクションのデータの病理学的・性的「現実」への還元の背後に、したがって、疑わしいような賭けが存在する。それはフィクションと現実の初歩的な混同、小説家の実践と言説の根拠となる混同を対象としている。小説家は、彼らの空想の生産物としてファンタスムを要求し、また現実原則[le principe de réalité]によって彼らの作中人物の夢想に反駁することで、現実とフィクションの境界の両側を、都合に合わせて往来する便宜を得ることができるのである。この両義性に対して、フロイトはまず、物語の一義性を対立させることを心配する。重要な点、そして解釈のあらゆる短絡を正当化する点は、恋愛のプロットを因果関係の合理性の構造と同一視することである。フロイトが関心あるのは、最終原因——ノルベルトの発見不可能な幼少期にさかのぼる検証不能の抑圧——ではなく、そのような因果関係の連関である。どの物語が現実あるいはフィクションなのかは重要ではない。要諦は、物語が一義的であること、想像的なものと現実的なものの、ロマン主義的な可逆的な、識別不可能性に、ある認識の出来事に向けられた、行為と知のアリストテレス的な配置を対立させる、ということである。
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