スタドラからみるお姫さまという呪縛からの解放。【後編】
さて、そんな非日常が日常になりかけていたころ、ワコが所属する演劇部の舞台発表が行われます。それが22話の「神話前夜」。
・非日常という渇望が満たされてしまう。
表向きにはサイバディの成り立ちなどが明かされる劇なのですが、もう一つの側面としてワコ×タクト×スガタの関係性(アプリボワゼ)を比喩していています。スガタは「宿命」を、タクトは「ワコ」を選び、タクトとワコは「キス」して終劇となります。
演劇内とはいえ、三者の関係性の結末のようにみえます。
劇中でも重要なメタファーとして表現されていた「キス」ですが、ワコにとってもキスは憧れであり、非日常の象徴みたいなものだったのですが、皮肉にも劇を通してその渇望が満たされてしまったわけです。(第一話で人工呼吸はしてますが、それはキスに含まれるかという議論になってるくらいなので、おそらくキスには含まれてません。)
・対比性が無くなった二人の王子さま。
ワコの渇望は満たされ、ワコとタクトは演劇の結末と同じようにゴールインしたと思われますが一筋縄ではいきません。
続く23話では、スガタがタクトとワコの関係性に気づきつつも、それを確認するかのように自身もワコにキスを迫ります。
第1話であれば確実に顔をそらしていたとワコだと思いますが、特に拒否するようなそぶりもないために、スガタが「冗談だよ。」と(内心慌てて)直前でストップする始末。スガタを受け入れてもいいようなところをみるに、演劇の結末とは違い、まだどちらの王子さまかを選びきれていません。
一方で、すでにキスは特別なものではなくなっており、一度はタクトに傾いたであろう気持ちにも迷いが生じていることから、憧れとしての非日常の王子さまであったタクトはいなくなり、どちらも日常の王子さまになってしまっているとも受け取れます。
・変化の先にある答えとは苦しみであった。
そんな三人の関係性が決まらないまま、最後の戦いに挑むことになります。奇しくも最終話のタイトルは「僕たちのアプリボワゼ(=関係性)」
最終話の戦いの凄さはこちらから。
最後の戦いを終え、ワコのナレーションが入ります。
私はやっぱりあなたに出会わなければよかった。
あなたが島に来なければよかったのに。
二人の男の子をこんなにも深くに同時に好きなっちゃった女の子苦しみが
あなたにはわかる?
非日常を求め、変化の先に答えがあると思っていたワコですが、そこにあったのはさらなる”苦しみ”でした。
この苦しみは本作のテーマである「青春」の側面であると思われるので、最後に物語を通しての「青春」を以下のようにまとめてみます。
『青春とは白黒つけることではなく、苦しみながらも答えを探し続けることである。』日常も非日常も“どう生きるか”が大事であり、その先にある変化(=成長)にも悩みながら進むしかない。
大人として描かれていたヘッドもこんなセリフを残しています。
「愚かな若者よ。闇の中で自分の居場所も進む方向もわからぬまま砕け散るがいい。」と。
そして、こんなコピーで物語は締めくくられます。
・お姫さまとしてのワコ。そして、その呪縛からの開放。
さて、ここまでは「青春」をテーマにワコの語り手視点で物語を考察してみましたが、実はもう一つの視点があります。それはワコのお姫さまという視点です。
「青春」というテーマの中ではどちらの王子様にするかの答えは出せませんでしたが、一人のお姫さまとしての場合はどうでしょうか。
2013年に発表された劇場版を見てみると、ワコも銀河美少年になっています。劇場版は基本的には総集編なのですが、わずかながらに新規エピソードもありTV版から地続きの物語となります。スガタも銀河美少年になっていますし、封印がとかれてしまった以上、ワコも銀河美少年としてサイバディと戦わなければいけないという理由もあるでしょう。
しかし、お姫さまとしてのワコは、どちらの王子さまも選ばなかった答えとして銀河美少年になったという見方もできます。
どちらの王子さまも選べなかった。
のではなく「選ばなかった。」という答えです。
銀河美少年になり、王子さまと一緒に戦うという決意は『お姫さまは王子さまと結ばれなければいけない。』というステレオタイプなお姫さま像からの呪縛と脱却というテーマが隠されている気がします。
スガタでもなくタクトでもなく、対等を選んだということが最終話のタイトルである<僕たちのアプリボワゼ>としての真の答えなんじゃないかなと思うわけでした。
最後にこれは深読みになってしまいますが、アニメ版と劇場版ではロゴが違います。
ゴシック体の丸みのあるロゴから、鋭い形のロゴに変わっていますが、これはワコの気持ちの変化を表しているかもしれません。
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