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2年間、宇田川ゼミで学んだことをざっくばらんに棚卸ししてみる
皆さんこんにちは😃
新四年生の新野です!!
さて、突然ですが、今日はなんと新野の最後のブログになるかと思います!笑
一年半ほどでしょうか、細々とやってきた(サボりも全然した)弊ゼミのブログですが、ついに50本を超えました。
ブログ全体としても、なんとなく途中から意識していた10000PVを超えまして(拍手!)、もうゼミ活動から離れ、四年生からは個人研究に移ってしまうのでそろそろ引退して、お役目を譲ろうかと…笑
なので、今回はちょっとだけいつもよりも真面目に(まじめな口調で)、僕がこの一年半、ゼミで学んだことを、まとめつつ振り返っていきたいなと思います。
是非目次に興味あるものがありましたら、ちょっとでも読んでいただけると、僕は嬉しいです。笑
⓪宇田川ゼミとは
本論に入る前に、まず幣ゼミについてご紹介しておきたい。
幣ゼミ宇田川ゼミは、ホラクラシー(階層や役職のない組織形態)のもと、ゼミ生が主導となってゼミを回している。
指導教員の宇田川先生もゼミ生の一部であり、意思決定権をもたない。
日々のゼミ活動の運営、各種イベント(社会人の皆様をお招きし日々の研究を発表するオープンゼミ、新ゼミ生の採用、合宿の組み立て etc...)の企画・運営はすべてゼミ生がコアチームと呼ばれるプロジェクトメンバーとなって遂行していく。
また、研究内容も班によってさまざまで、今年はワインの研究だったり、部活動の研究、先輩方にはガチャガチャの研究や地下アイドルについて研究した方もいらっしゃるなど、自分が言うのもなんだけれど、かなり変な(笑)ゼミであると思う。
下記では、その変なゼミで学んだことを、気ままに、書いてみたいと思う。
①自分が思っている以上に自分は相手の状況がわからない
うちのゼミは、こないだ腑に落ちたのだけれど、大きな視点で言えば、「人と働くこと」を学んでいるのではないかと思う。
そこには色々な葛藤だったり、思い込みだったりが埋まっていて、それが自分を苦しめることも多々あったりするのである。
例えば、なぜこの人は研究をやらないのだろう?
という問題が発生したととして、僕個人の見方が、「この人は主体性がない」「怠慢だなぁ」というものであったときに、
僕が出来る(もしくはしてしまう)のは、「なぜやらないのか!」「やるべきだ」という話をその人にすることである。
でも、実際そう思われている当の本人は、他のことで手がいっぱいで、どうしようもない状況になっていることがある。
このような、見方が違うからこそ生まれる目の前の問題の原因は、よくよく話し合わなければついぞ見失ってしまうし、勝手な解釈によって無理に疲弊してしまう。
要は、僕が仮定として置いている原因は、あくまでどこまでいっても仮定なわけで、その当人の状況とは乖離してることが多々ある。
原因が分かっていないのに、分かっているような状況は、現状も変わらないし、仮定から間違っているのだから、疲弊しか起こらない。
よく、相手の立場に立って考えてみよう、というけれども、それは語らないうちは土台無理な話でもあるのではないか。
なぜなら、その人が(現在進行形で)生きている状況を僕たちは知る由がないからである。役職などでわかることなどたかが知れている。
だからこそ、語るなかで僕たちはより良い仮説を見つけなければいけないし、その仮説が外れていることもあるのだということは肝に銘じなければいけないのではないかと思う。(気をつけていないと、僕はすぐ忘れてしまう…)
②"それ"は果たして問題なのか?
先ほどの話とも関係するのだけれど、
例えば研究をしない人が出てきたとしよう。
果たしてそれはそもそも問題なのだろうか?
実際に、その子が研究をやらなくても、自分含めて他の子たちがやって、研究は回っているのだから、それは問題ではないのではないか。
むしろ、問題の根幹は、その研究しない子がいてもどうにかなってしまう現状に問題があると言えないだろうか(それを問題と捉えるならば。)
だとしたら、今僕たちが回せてしまっているのだから、僕たちにも問題があるし、仮に僕が抜けたならば、その研究をしない子は研究をするのではないだろうか。
そう言った意味で、目の前の問題は極めて関係性の問題じゃないかと思う。決して主体性がどうこうという話ではないのである。だってその研究しない方からしたら、自分が何もしなくても、この班はうまく回っているのだから。
昨日は、オープンゼミの反省をゼミの時間に行ったが、非常に興味深い意見がでた。自分が研究を進めることで、理解を阻んでいることが分かったのである。
うちの班は、割と僕が研究が好きだから、僕がどんどん進めてしまう気がある。毎回のプレゼン資料の作成、参考引用文献の収集、ゼミでのプレゼンテーション、フィードバックの修正 etc...
これをやっていて、班自体は回っているのだから、班単位では特に問題ではないのである。一方、僕が一人で研究を進めれば進めるほど、班のメンバーは研究に入れる余地がないし、暗黙的に上記のような仕事を僕がやっているので、明示された役割もなく、ただ追従するしかない状況になっていたのである。これは、「主体性が・・・」などという話ではない。(いい悪いということはとりあえず置いておいて)僕の振る舞いが班のメンバーの理解を阻害していたことに間違いはない。
問題はこれは、「問題なのか。」という点であると思う(言葉遊びみたいになっているけれど。笑 そこに答えは今のところ出ていない。)
③こうすれば正しいマネジメントなんてない
これまた上記と関係する話なのだけれど、要は起きている問題は関係性の問題なのではないか。
まず、下の記事を是非一読いただきたい。
異なる班の話なのだけれど、どちらも一年の振り返りをしてもらった。
興味深いのは、彼らの言及する解決案はまったくもって正反対なことである。
明示された役割があればうまく行くのだ
暗黙的な役割があるからうまく行くのだ
たぶん、どっちも正しいのではないだろうか。
これはその班の一人一人の関係の上に要請されたものであって、どうすれば班がうまくいく、なんてものは存在しないのかもしれない。
(余談だけれども、僕がハウトゥー本を読まないのはこういう背景がある。そもそもの関係性によって求められている制度・役割が異なるのに、こうすればうまくいく!なんてものがあるはずがない。)
僕たちが、今どういう状況に立っていて、何に困っているのかを考えることが求められるのではないだろうか。
そして、その困っていることに合わせて、必要となる対策もあるのであろう。なので、その対策(構造)を先に取り入れたからといって、うまく回るとも限らないのである。
ただ、難しいのは、「何にこまっているのかわからないことが多々ある」ことである。
特に、②でみたように、要素的に分解して見える問題と、構造的(関係性的)問題は別の軸に存在する。実際にはどこに問題があるのかは異なる角度から見たら全く違うように映ったりする。
上の記事のB班は、林君が言及しているように、途中、スランプのような、研究が進まない時期があった。その原因は何だったのか。まず班の中でそれに丁寧に話し合い、「何が問題なのか」を議論した結果、生まれた案だともう。
間違ってもその議論なしで(問題がなにかわかっていない状況で)場を変えようとしてはいけない、とこの事例から深く考えさせられる。
④「見られ方」は言い方と同じくらい大事
よく、「言い方が悪い」という批判は耳にするのだけれど、「見られ方」まで気にする人はあんまりいないのではないか。
例えばなのだろうけど、「言いたいことはなんでも言ってくださいね」なんて言っている人が、すごい仏頂面で、腕を組んでいたらどうだろう。
話しやすい状況では確実にないだろう。
もっとも、そんな仏頂面をしている人が、素晴らしいひとで、優しくて、常に周りのサポートを忘れない人であっても、それを見た人からすると、「怖い人」でしかないのだ。
つまり、日々の見られ方が大変重要な気がするのだけれど、あまり注目されていない。
見られ方を直すのは(直すように振る舞うのは)言い方を直すよりもかなり難しいのではないか。
いわゆる、身体が発する言語なのだろうけれども、これは発話の時とは違って不断に発信しているのだから。
この見られ方が不要な忖度、誤った(伝えたい人柄とは違うという意味での誤った)解釈を与えているということは間違い無い。
ということは、我々は、常に見られ方を意識しなければいけない、とまでは言わないけれども、そのような言葉にしない忖度が生まれることも十分に承知しなければいけないのだと思う。
完全に余談だけれども 僕はパソコンのカメラを使っているので、常時ミーティング中見下ろす形になっていた。ゼミ生の誰も気づいていないかも知れないけど、新しくカメラセットを買って高い位置につけて見上げる形にしてみました。笑
僕はほんとに自分の身体言語について無知すぎるので、気づいたところから、小さなことなのだけれど、それぐらいから改善していきたいと思う。
⑤ぽろっとでた言葉に注目する勘の良さ
うちの班での話なのだけれど、ちょっと前にコアチームをやっているゼミ生が、ぽろっと、「明日のプレゼン、緊張して吐きそう・・・」と笑って言っていた時の話である。
(詳細に関しては下記の記事を読んでいただきたい。)
この記事にある通り、ある問題の根幹は、こんなぽろっと出た、かつ雑談の中で垣間見えることがあるのである。
通常だと、これは「きっとおどけていったのだな」と、スルーされることも大いにある発言なのではないか。
なぜかというと、出ている発言と、その場の和やかさと、発言している本人の表情がそのような解釈が有利なように見せてくるからである。
しかし、重要なのは、このような心理的安全性の中の、「誰も気づかないであろう」発言に実は気づいてほしい真意が隠されているのである。
よく心理的安全性は重要だ、という言葉を聞くけれども、その安全性の中でぽろっと出た言葉を、拾い上げる、ある種の”勘の良さ”も重要になってくるのではないかと思う。みんながみんな、深刻な顔で、「これに悩んでいるんだ…」と訴えてくれたら、こんなに楽なことはないのかもしれない。むしろ、発言した本人さえも気づかないものに、問題の根幹はあるのではないだろうか。
⑥アウトプットすることの意義
僕は、なんだかんだゼミのブログを1年半、編集したのも含めて、のろのろと書いている。
そこで気づいたのは、アウトプットするから、インプットが生まれるということである。
書かなければ、、、という締め切りが決まっているときはもちろん何かしら知識をインプットしたり、考えることをするのだけれど、
「いつか書くかもな…」という緩いスタンスでも、案外インプットはし続けるのである。去年から(ちゃんと真面目に ブログを書くようになってから)、格段にiPhoneのメモ帳の量が増えた。
さらに、アウトプットすると、(実はNoteのしたがきも途中で止まっているのが何個かあるのだが)何がわかっていないのかがよりはっきりしたりもするのである。
特に、ゼミでプレゼンをしていると、している途中で「ここ、論理がおかしいな」とかに気づくのである。
なにかアウトプットしなきゃな…と考えている方にぜひおすすめしたいのは、先にアウトプットをしてみることなのではないか、と提言したい。
幣ゼミの宮原君のブログもこのことについて言及しており、大変勉強をさせていただいた。
⑦私たちは分かり合えない
今年度のゼミの活動を通して、幾度も考えさせられたのがこれである。
「私たちはわかりえない」のである。
何回もこのブログで申し上げているのだけれど、一昨年のゼミは僕のなかで本当にきつかった。
なぜなら「みんなすごい怠惰だし、こんなに自分が困っているのにだれも助けてくれな」かったからである。
僕の中では、研究って絶対自分のためになるし、(講義の一つでもあるし)結構面白いし、こんなに僕は困っているのに、なんでだれも手助けしてくれないのだ!!という感じだったのだけれど、
そもそも僕の前提がおかしかったりする。
研究なんて別に授業の一つだし、別に面白くもないし、新野は困っていない(⑤でも申し上げたけれども、困ってないように見えるのは、実際困っていないのと他者からの視点では同じである。)と考えている人もいるわけである。(何回も申し上げるけれども、これはどっちがいい悪いという話ではない。)
今、僕たちの世代も含め、なんとなく話し合えば、分かり合えるということが前提にある気がする。無意識に他人に同じ行動を振舞うことを要請しているし(空気読めないな、という言葉で)、その振る舞いを行わない人間をそのコミュニティから排除しようという動きもある。
もしくは、全く話し合わないということもあるかもしれない。言語で区切ることによって、その人の信条・思想を傷つけないように、根幹のそれを議論することなく、「私たちは同じ方向を向いている」と"してしまう"こともあるだろう。
でも、完璧にわかり合うことなんて無理じゃないか。僕にも親友と呼べる友人がいるのだけれど、趣味・嗜好から、物事の考え方まで全く違うし、分かり合えることなんて絶対ない(だからこそ互いが互いを面白いと思っているから一緒にいるのだけれど)。
ブルデューの文化資本概念を学んでいても、全く同じような感覚をうける。
でも、時たま、これは「どうにかしなければいけない」課題が降ってきて、「分かり合えない中でもなんとかやっていくしかない」時がある。
ここで「分かり合えないこと」が前提にないと、その手段を見誤ることがあるのではないか。
みんながみんな、同じものを目指してそこで働いて(存在して)いるわけでもないし、見たい景色も全く違う。うちのゼミでもありがたいことに毎年ゼミ生の人数が決まっているので行っているが、
採用という観点でそのあしなみは可能なだけそろえることもできるのだろうけど、それにしても多種多様な人がいるゼミである。まあでもそれは当たり前で、だって皆がみんな違う自分の人生を生きているのだから。
その、我々は「分かり合える」という幻想を捨てて、少しでも現状を良くしようと考えることの重要性を教えてくださったゼミ活動に、深く深くお礼を申し上げたい。
終わりに
いかがだったでしょうか。
ざっくばらんで読みにくい文章となってしまい、大変申し訳ございません。
諸先輩方から引き継いだゼミブログが、ここまでまがいなりにも続いたことが個人的には感慨深いです…
冒頭で申し上げましたが、今回のブログで新野の更新としては最後になります。
ぜひ少しでも面白いなと思っていただけましたら、スキ&シェアをよろしくお願いいたします!
今まで読んでいただき、誠にありがとうございました!
ではでは…
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