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進化する自治を構想する 20「まちの豊かさとコモン」

中間領域の喪失

 日本の家屋建築から、コモンが無くなっていくことに、危うさを感じている、ということが、お二人(伴年晶氏と大矢和男氏)の建築思想の根底にあるように感じた。昭和の終わりくらいまでは、プライベート空間とパブリック空間が明確に分かれているのではなく、縁側や前庭、路地や井戸などの中間領域があった。そうした住民が共有する空間が、プライバシー重視やセキュリティの問題、あるいはクルマ社会化に伴う騒音や大気汚染の遮断などが積み重なっていくことで、完全に分断されてしまっている。

都市化が進めるプライベート化

 そうした中間領域の喪失は、「都市化」によっても加速度的に進んでいる問題の一つ。インフラ整備によって、都市化が進むと同時に中間領域が無くなり、多くがプライベート化される。上下水道の整備によって、地域の井戸や川の利用が無くなり、ガス・電気の普及によって、山や林の利用が無くなる。銭湯の減少などもその一つかもしれない。
 伴さんの言われている、住宅におけるコモンは、空間を共に使い、使い方を考えていくコミュニティのようなものが核にあって、そういう意識や利用の仕方が、コモンをつくっていくという考え方には強く共感できる。

コモンって何?

 現代で言うコモンの定義を、例えば「斎藤浩平氏が言うような、お金を支払わなくても誰もが利用できる場所であったり施設である」とする(あるいは低額での利用)。
 代表的なものが、公園であったり、図書館だったりする。都市化された中での市民共有の資産であり、共有物であると。そう考えると、いまある公園の中にどのような機能があればいいのかを考え直す必要があるのではないか。
 テレビが登場した直後には、街頭テレビがあったが、一家に1台になり、ひとり1台になり、今やスマートフォンで視聴しているように、すべてがパーソナライズ化されていく。時代と共に、ある意味コモンは無くなっているが、その流れの中で、コモンであるべき領域に対する考え方が変わっているとも言える。
 もし、だれもが利用できる現在のパブリック空間に、もっと気軽に活用できる場所や空間があれば、より豊かな都市像がつくれるように思う。

まちの豊かさとしてのコモン

 現在のパブリック空間で感じる違和感は、公園内の商業施設の占有に象徴されている。例えば大阪城公園内には、子どもたちが遊べる市民公園としての遊具場の真隣に、有料の遊具園があるという構図。お金を払って遊具園で遊べる人にとっては豊かなのかもしれないが、まちの豊かさを考えた時に、こうしたパブリック空間の中に利益を追求する施設のあることがほんとうに豊かなのだろうか、疑問である。

 コモンという空間を持つこと、だれもが気軽に利用でき、だれに気兼ねすることもなく使える居場所を、どのようにつくるのか、そうした場所があることがまちの豊かさなのだ、ということを訴えていきたい。

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