里山から自治を考える 18「ゴジラ-1.0と万博と里山と。」
ネタバレとしてのゴジラ-1.0
ネタバレになるので、これからゴジラ-1.0を観ようという方は、今回は視聴しないようにしてください。
さて、ゴジラ-1.0なんですが、ざっくり話すと、普通サイズのゴジラが、アメリカの核実験でビッグサイズに変わって、殺傷能力もすごく上がって、日本が攻撃を受ける。ところが、アメリカも日本も軍隊や自衛隊は出せない、ということで、民間の中で有志の戦う人間と、戦わない人間に分け、戦うという人間がゴジラに特攻するという話なんです。しかも特攻するんだけれども、死なないという設定なんです。
何が言いたいかというと、これって戦意高揚のアイロニーが含まれている映画なんです。これに素直に感動しているという状況。
ゴジラ=日米安保条約か
日本で生まれたゴジラが、原爆で強化されてしまい、それに対して軍隊(自衛隊)をあてにせずに、民間で戦えという、徴兵制まで見据えたメッセージが込められているように感じたんです。そういう、凄まじく恐ろしい映画だと感じました。
その高揚感を、多くの人々が共有している感じがするんです。そして、それが大好評だということに違和感があります。
そして最後にゴジラが復活する意味
最後の最後には、ゴジラが復活するんです。ゴジラ=日米安保条約と捉えると、民間が、市民が、どれだけがんばっても日米安保条約は不滅ですよ、というメッセージに読めたんです。
支配層と市民層があるとすると、市民層をさらに戦う人と、戦わない人に二分することを暗喩しているとも思いました。そういう意味で、本当に怖い映画でした。
自衛隊が戦えないという、状況設定がとてもシュールで、かつ、現在の日本へのリアリティさがありました。
最終的に、ゴジラ-1.0からゴジラ0、ゴジラ+1.0があるような気がするんですよ。
こんな映画を、素直にストーリーだけで楽しんでいる、多くの鑑賞者がいることに恐怖を禁じえませんでしたね。
社会の2層化の象徴としての万博
ゴジラ-1.0の中で出てきた、こんな心情的の社会情勢、二層化している状態こそが、今の万博につながっていると思うんですよ。万博の問題が「自分事」になっていない。どこか遠い話として語られているような感覚で万博を観ている、府民・市民がいるような状態ではないかと。
今までは、ぼやっとしていた二層化社会が、いよいよ牙をむき出して、明確にパキッと分断してきた。
支配層と被支配層が完全に二分化してきた。そんなパラダイムシフトが起こってきていて、その象徴としての大阪・関西万博がむき出しで出現している。そう思います。そして多くの国民は、もうそのことにすら関心を持てなくなっている。既に被支配層化しているのかもしれません。
一方で、こういった二層化社会に、全日本国民が諸手を挙げて賛同しているわけではなく、このパラダイムの間で、ギクシャクして迷走している。そんな文脈の中に、「里山」が存在している。そんな俯瞰した感傷に迷い込んだことを少し共有したいと思いまして、語らせてもらいました。