進化する自治を構想する 04「身体性を問う時代へ」
フィールドパビリオンから派生する万博観
「里山と自治」の今回のコアとなっていた「大阪・関西万博」。話は1970年万博との比較から、その精神性におよび、かなり飛躍した展開となっていきました。
話の起点としては、2025年万博の兵庫企画として、里山をアピールすることを目的とした「フィールドパビリオン」が始まりです。いま万博の会場と言われるとイコール「夢洲」となっているけれど、そうではなく、多様化している現代においては、一つの会場に行くことだけでなく、一人ひとりの中に万博を位置づけることもあるのではないか、という里山太郎さんの問題提起がされたと思います。
小ロット化による多様性を認める
1つの会場に大勢が集まって、まつりを楽しむというモデルはすでに古くなっていて、あるコンセプトのもとに、複数の場所で、それぞれ異なる嗜好や思惑で行われていることを体験しに行く。その場所でしか感じられない「何か」を体験することで、国際性やコンセプトの意味を見出すことができるようなことがあってもいいい。言われていた「小ロット万博」をイメージするような、雨後の筍のようにあちらこちらで趣の違ったイベントが沸き上がっていることを体験する、というのもある種のアートとして楽しめるように思います。外部の人が小ロット化された地域を体験するということが、一人一人がそれぞれの「身体性」を持って体験する、現地体験をするということが大切ではないかと思います。
「身体性」を改めて感じ取る時代へ
1970年万博の成功体験の上に、夢をもう一度、二度三度、ということが繰り返されていて、あの幻想から抜け出せていないのではないか。
1970年前後の大衆社会と現代の多様化、個人化の時代とのずれを目の当たりにするような25年万博。
いま、パビリオン建築が間に合わないのではないか、という問題が紙面やネットをにぎわしていますが、建築を見て、感動するというイベントではなく、どういう「身体性」を感じ取る体験をするか、ということが重要な時代と思っています。
同様のことが「自治」という視点でも同様のことが言えるよね、ということを感じました。昭和の次代では、「大きな大衆」という枠組みで行えばそれでよしとされた行政サービスや事業も、現代においては、多様化している生活スタイルや、各世代のライフステージに合わせたサービスのあり方、行政とのかかわり方があるように思います。もう少しきめ細かい考え方を持つ必要があるのではないかと思います。
バーチャルの世界と「身体性」
今後加速していくであろうバーチャルの世界と「身体性」をどのようにとらえるのかも、これからの自治の方向に影響を与えるように思います。
さまざまな場面や分野でバーチャルの世界観や、AI技術の導入が行われていくでしょうが、個々それぞれのくらし、地域、まち、そこで生きるという「身体性」がある限り、バーチャルの世界がどこまで広がるのかということには疑問を感じます。こういうバーチャルやAIがもてはやされる時代だからこそ、生身の「身体性」を問い直すことを考えたいですね。