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さようなら猫町

2020年の暮れ、8年間暮らした賃貸から引っ越しをした。と言っても徒歩20分しか離れてないし、そこも賃貸なのだけど。ちなみに最寄駅すら変わらない。しかし新居の居住空間は広いし、陽当たりはかなり改善された。正直言って、引っ越しをして本当に良かったと思っている。

しかし、1つだけ不満なところもある。それは近所に野良猫が全然いない、ということだ。前の家の周辺には車がギリギリ通れるくらいの狭い路地や、微妙なサイズの空き地が多かった。そこは猫たちにとって大変過ごしやすいらしく、しょっちゅう集会を開いたり、たまには喧嘩をしたりしている。一見すると、そこはまるで野良猫たちの楽園のようだ。

しかしながら、長く観察をしていると段々と野良猫たちの生活も決して楽ではないことも分かってくる。一定の周期で野良仔猫たちがワサワサと出てくるのに、なんとなく猫の全体数が増えているようには感じないのだ。つまり、ちゃんと大人まで成長出来るのは結構な狭き門なのである。

私は別に猫が好きなわけではないので、野良猫たちを可愛いと思ったことはない。彼らは「にゃー」ではなく「なーご」と低い声で話すし、目つきも凄く悪い。私と猫たちはお互いに関わりを持たないというか、そもそも関心があまりないという感じだった。

そんなことを考えていると、萩原朔太郎の『猫町』という小説を思い出す。一応、野良猫が近所にたくさん住んでるから『猫町』、という短絡的なことではないんです。この『猫町』という小説はざっくり言うと、見慣れた街でも違う角度から見つめると、全く知らない街に見えるという話だ。その知らない街というのは普段知覚することは出来ないが、確かに並行世界として存在しており、よく通る道を逆から歩くなどのふとした瞬間に迷いこんでしまう。そんな話だ。


私が近所を歩いていた時の感覚はこれとは少し違っていて、どちらかと言うと自分の世界と野良猫たちの世界がレイヤーみたいに重なっている、という感じ。お互いに見ることは出来るけど、別に干渉もしない。そして、それぞれの世界は勝手に成立している。でも、ふとした瞬間に重なることがある。そんな感じだ。

例えばどんな時に重なるのかというと、雨の強い日に窓を開けるとベランダの隅で野良猫が1匹雨宿りをしていたりする。「雨、止みそうにないですね」とか会話をするわけでもない。ほんの少しの間だけお互いの目が合うけれど、ただそれだけ。

猫の行動範囲は意外と狭いということは知られているが、2020年に私たちの行動範囲も急速に狭くなった。外へ出るには必ずマスクをして、親しい友人と気軽に会うことも出来なくなった。私たちの生活様式は劇的な変化をして、日常は別の何かに塗り替えられてしまった。しかし、野良猫たちの世界ではいつもと変わらない日常が続いている。思い返せば、そのことが私に奇妙な安心感を与えてくれていたのだ。気づけば近所を歩いている時、野良猫たちが相変わらず車の下でくつろいでいたりするのを確認する癖がついていた。

だから、新居の近くに野良猫たちがいないことが不満なのだ。たとえ厳しい世界ではあっても、変わらない日常が続いている猫町が存在するということ。それを確かめられないことが。

引っ越しをする数ヶ月前、1匹の茶トラが我が家を縄張りにするようになった。彼(もしくは彼女)と私は他の野良猫たちと同様にお互いに干渉することはなかった。しかし引っ越しを1ヶ月後に控えたある日、窓を開けるとそこにはあの茶トラがいた。私は思い切って「実は1ヶ月後に引っ越しすることになったんです」と話しかけ、たりはしなかったし、茶トラもこちらを見つめたまま動かない。私は茶トラとの世界が重なった記念に写真を1枚撮った。その間も、茶トラはこちらを見つめたまま動かなかった。

それ以来、その茶トラとは会っていない。


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