自分も現代史の一部である
夏の関西、ゆやんたん文庫を訪問した折、八太夫さんの朝のお勤めに連座させていただいた。お経に続いて身近な人からガザの人々の追悼が毎朝行われているという。一緒に手を合わせる人が増えれば、倍の供養になると言われた。私は日課というものがどうやら苦手だ。例えばこのnoteに文章を「毎日一行でも書く」ことを試みるが、はじめの一日に頑張りすぎて、早速翌日はサイトを開きさえしない。だから八太夫さんにならって、東京に戻ってからも般若心経を唱えたり、母やぺぺさんから始めてガザやウクライナ、ロシア、ミャンマーの人たちのことを追悼することをやってみようという気持ちはあるのだが、実行していない。そのかわり、ライブの時や農作業をするとき、ただ歩いているような時に、心にそうした人のことを浮かべ、追悼する気持ちを込めて何かするということはよくある。最近不意に始まったお地蔵様を彫る作業などは、石を彫ることの面白さ、大谷石という素人にも取り組みやすい素材の優しい風合い、なによりお地蔵様を彫らせていただいているという状況が重なって、平和を祈り、心の平安を祈り、亡くなった方々の成仏を祈りながら作業することができる。石にも作業できる期間にも限りがあり、ずっと続けられるわけではないが、なんらかの形で継続できたらいい。
20歳以来、選挙の度に欠かさずに投票に行くけれど、それほど政治に関心があるわけではない。テレビも観ず、新聞も取らず、音楽に取り組んだり、好きな映画を観て本を読んで、家事や介護をして、アルバイトをして、そのうえ田んぼにも通っていれば一週間はあっという間だ。私ひとり関心を寄せても無関心でいても解決しない難題の数々は、勉強してもなかなかとらえきれないし、知れば知るほど不愉快になったり不安が増したりするばかり。そんな風に暮らしていても、戦争の話題は目に入り、耳に届き、物価高は生活の端々に影響する。完全に無関心ということはできないものだ。
2011年春に会社をリストラされ、夏から金曜日の午前中だけ日比谷公園を見下ろす高層ビルの法律事務所に机ひとつ分だけ間借りしていた団体の事務のアルバイトが始まった。高校生限定の私設奨学金制度で、(現在はNPO法人)「311」のために家族や家や生活基盤を失った高校生のための支援枠拡大に伴い、仕事が発生した。私が仕事を辞めたことを知った前職の取引先が仕事を手伝わないかと声をかけてくれた。
毎週金曜日の仕事のあと、日比谷公園や図書館、新橋駅付近を散策して帰る習慣ができた。霞が関方面に向かうデモ隊をよく見かけた。東京電力本社ビルの周りに集まる抗議の人も目に入った。「抗議」と言うが、昼間のデモや集まりは物々しい感じはなく、人数もまばらで、警備のほうがよほど大袈裟な雰囲気だった。ともかくそんな風景が日常に入り込み、さほど報道もされない抗議活動がこれほど日常的に行われているという事実に驚いた。
しばらくのちに、同じ代表理事の関係するもうひとつのNPO法人のアルバイトも始めることになるのだが、その前段階として、議員会館などで開催される集会の臨時バイトも時折頼まれるようになり、議員会館の入口に立って通行証を渡したり、会議室で受付をしたりする機会が増えた。国会議事堂や議員会館、首相官邸などの道には様々なテーマのプラカードなどを掲げて意思表示している人が沢山いた。2011年当時、原発問題は大きなテーマだったが、障害者の問題、教育の問題、公害問題、難民問題、、、とにかく世の中には問題が沢山山積みであると感じた。
前職は小さな借金だらけの物流企業で、昭和のありきたりなハラスメントあふれるブラック企業だった。社員のことも大事にしないが顧客のことも小馬鹿にする風潮があり、同族経営の経営者家族の利益のことだけを考えているような会社。一所懸命働いても甲斐がないと感じていた。しかし私自身もたいして取り柄のない、借金を負った両親のためにお金が必要で(焼石に水だったが)自分にはお似合いの会社なのだと思っていた。願わくば次の仕事は社会的に意義のある、自分自身も高められるような仕事をしたいと思っていた。だからアルバイトといえども奨学金の仕事や環境・公害・原発問題などに関する団体での仕事を得たことはありがたかった。
そんな経緯で官邸前脱原発デモのことが気にかかるようになり、声を上げなければ、というよりはそこに集う人に会って話をしてみたいという動機からある日の夕方、一人で霞が関へ向かった。鳴り物歓迎のチラシを見たのでトランペットを携えて。
首都圏反原発連合による毎週金曜日の官邸前抗議活動は2021年3月に9年半の活動を一旦休止と発表されたが、抗議活動をしている人の中にはチェルノブイリ(1986)やスリーマイル島原発事故(1979)、第五福竜丸事件(1954年アメリカ合衆国がビキニ環礁で行った水爆実験による被ばく事件)、あるいは全国各地の原発施設誘致を巡る問題等、様々なきっかけにより2011年以前から抗議運動をしている方が多く、今もそれぞれの活動は各地で続いている。
私が原発問題に関心を持ち始めたのは、週刊金曜日を創刊号から購読していた父の影響が大きいが、学生時代に本橋成一さんの「授業」を受ける機会があり、大学で『ナージャの村』の上映会と本橋さんの講演を企画運営したことが発端である。その時初めて、遠い外国の悲惨な事故というよりも、自分自身にも地続きの問題として捉えることができた。『ナージャの村』と、続く『アレクセイの泉』を観て以来、「東京も放射能汚染されたら」という視点が自分の中に生まれた。311の津波に続く原子力発電所の故障、爆発事故、放射能汚染のニュースを見ながら、ついに日本にもナージャの村、人が立ち入れないほど高い放射能汚染地区のできてしまったこと、地図から消されるかもしれない地域の発生を思った。
Wikipedia情報からざっとまとめてみると、日本では戦前から戦時中にかけて核の研究が行われたが、敗戦によって1945年以降、研究が全面的に禁止された。しかし、アイゼンハウアーによる国連総会での「平和のための原子力」講演を機に、1954年から「原子力の平和利用」研究が始まる。1963年、茨城県の東海村で日本初の原子力発電が実行される。1974年、電源三法が成立し、原発をつくるごとに交付金が支給される仕組みができる。2011年3月10日までに54基の原発が作られていた。
「核施設」と「原子力発電施設」は英語にすれば同じだが、「核爆弾」と「原子力発電」のように日本語では「核発電」とは表現しない。この手の言葉の印象操作が原発絡みの問題では顕著であるが、効果は驚くほど大きい。
官邸前抗議活動に毎週足を運び、様々な人の話を聞く中で、反戦、反核を思いながらも、「原子力の平和利用」という言葉を信じて、原子力発電の発展を日本の経済発展と結びつけて捉え、善きことと受け止めていた、「311で目が覚めた」という話を何人もの人から聞いた。54基もの原発が「いつの間に作られたのか知らなかった」という声も多い。54基といっても47都道府県に平等に作られたわけではなく、反対活動の弱い過疎の進んだ地域(ついでに言うと地名も覚えづらい、特殊な読み方をする地域が多い印象)、人が少ないが故に自然豊かな、特に美しい海岸沿いが標的となってきたこと、原発マップはそのまま日本の経済格差問題を表わしているようだ。
2011年3月11日の震災で気づいたのは、自分も現代史の一部を担っているということ。現代史の現在の一日を、祈りで始めるもよし、こうしてたまに長い文章を書いて脳内整理するもよし、朝から地蔵を彫るもよし、好きなことに費やすもよし、なにも生産せずひたすら心や体を休めるもよし。しかし、人の権利や健康や命を奪うようなことを、それに連なることを、したくない。現代の都市で生きていれば呼吸するだけ、トイレの水を流すだけで、なんらかの搾取に加担してしまうのかもしれないけれども。