これまでの人生で面白かった「場」まとめ
実家の茶の間
常に隣近所の人たちが遊びに来ていて、おかずの交換をしたり、おしゃべりしたり。私を可愛がりに来たり。裸足で玄関から飛び出せば、いつも名前を呼ばれて守られて愛でられていた。卵が足りなければ、朝一番で近所にお使いに出された。
おばあちゃんの家
お盆、正月、春彼岸、秋彼岸、必ず親戚が集まる。
女たちはおかずを持ち寄って、台所で品評会を繰り広げ、
男たちは、茶の間でそのおかずを肴に酒を酌み交わし
子供達は、隣の部屋でいとこ同士遊んだり、おしゃべりしたり、虫取りに飛び出す子もいたり。
私は23番目の最後の孫だった。だいたい、誰が何のおかずを持ってくるかは、決まっていて、それらは間違いなく美味しい。
卵のおばちゃんち
毎週火曜日となると、徒歩5分の「卵のおばちゃん」の家に行って、そこの縁側で卵を受け取り、お金を支払い、「おばちゃん」とおしゃべりをしていた。短くて5ふん、長くて30分。おばちゃんは元教師だった。卵はもちろん有精卵。
部室。
部員が最高だったから、毎日呼吸困難になりそうなほど、笑い転げていた。心のオアシスだった。頭のいい女は面白い。
高校生の時の個別指導塾
塾なのに、勉強はそこそこに恋愛相談ばかりしていた。
彼氏はそこの卒業生で、塾長自らが、私に彼の電話番号を教えてきた。卒業後、受験には自分としては失敗したと思っていて、それを嘆いたら、塾長は、「あいちゃんにとってはその時、勉強よりも恋愛が大事だったんだよ。」と言われた。教育者としては失格だけど、でも確かに、私にとってはあの恋愛は必要だった。
サークルで使ってた一軒家
相当クリエイティブな和太鼓サークルで、一軒家まるまる借りて備品を管理し、会議もそこでやっていた。酒も飲むし、真面目な会議もするし、作業もする場所だった。たべものはジャンク品。だけど、徹夜しながら、ジャンクを飲食するのは、なかなかの快感だった。
ゼミで通っていたコミュニティラジオカフェ。
カフェとラジオ局が併設されていた。でも、特にそこですごい出会いとかがカフェだから生み出された感じはない。スタッフだったから、ゼミで関わりがあったから、すごく恵まれた出会いがあっただけだと思う。普通にカフェとして利用しても、ラジオは流れてはいなかった。
五条堀川増田屋ビル
ギャラリーアンテナ、砂の書、ベトナムカフェ、そして企てる人たちの巣窟、「匣」。すべての部屋を面白い人たちが間借りしており、その狭いビルをウロウロしているだけで、刺激を受けた。もうそのビルは老朽化のため壊されてしまった。
千本丸太町のシェアハウス「スリムービューティーハウス」
自称いけてる女たちで町屋を借りて住んでいた(私も自称いけてる女の一人)。大学院に進んで研究を続けるようなメンバーも複数いて、会話自体が面白かったから、生活を共にしているだけで刺激的だった。それぞれのたべものやエコな生活へのこだわりが強く、それまで食べたことのなかった固有種の野菜などを食べることがあった。例えばマクワウリ。粉石鹸もここで初めて使うようになった。
JICAボランティアの現地ドミトリーSEDE
各分野の専門家が首都で寝泊まりする時に使う寮のようなもの。その道のプロが集まるのだから、面白くないわけがない。変わった人も多いけれど。
エルサルバドルのスチトト市の中心地にあったカフェ。
教会の目の前に位置する。テラス席があって、いつもそこには、ヨーロッパ系のハイクラスな住人たちがたむろして、コーヒーを飲みながら、話に花を咲かせていた。インターネットカフェでもあり、地元の若者たちもネットを使いに来ていた。そこで飲んだ、ラム酒入りのコーヒーが美味しかった。日本人以外のボランティアも多い町で、パーティ文化はこの町で学んだ。
ブラウンズフィールド
デコさんと旦那さんが面白いのだから、周りに面白い人が集まるのは、仕方がない。毎日笑いすぎて、喘息になるくらいだった。食事が美味しいのは、言うまでもない。集っていた仲間たちと交わす会話は心の栄養になった。
ヴィパッサナ瞑想センター
Facebook上で、面白いなーって思う人はだいたいここを通過している場合が多い。ヴィーガンの食事は、どのコースも最高だった。食事を整えると体が整い、意識と精神が整う、を体感できる場所。
ニュージーランドのWOOOF先
どのWOOOF先も、最高である。
WOOOFに来る世界中の若者に出会えるのである。
英語は、第二言語で、伝われば良い、というスタンス。
その公平感が良かった。たべものはいつもオーガニックで、若者たちが順番に担当するので、お国柄が出て面白い。ジャガイモの茹で方で喧嘩していたメンバーもいたな。水から茹でるか、沸騰してから茹でるか。野良仕事と生活を共にする中で、音楽、会話、食事・・・楽しいことを分かち合うって、とても豊かである。
ニュージーランドのシェアハウス。
自分で応募したのだけど、そこでは入居希望者が複数いて、私が採用された。なぜなら、ふんどしを手作りしている日本人の女の子ってところが、彼らのドストライクだったから。ミュージシャン、プロの詩人、アーティスト、などが住んでいて、日々の暮らし自体が文化的で楽しかった。
マウントクックのハイキングガイドが住む家
窓の外は、常に満天の星空である。電灯の一つもない国立公園に住めることの利点は、美味しい空気、綺麗な景色、満天の星空をいつでも浴びるように堪能できることだ。手打ちうどんを始めて作った場所。
元田中のシェアハウス。
美大出身の子たちばかりの家で、楽しかった。
そもそも、家が古くて風情があって、味わい深かった。近所のゴリラっていうポークソテーの美味しい店が大好きだった。
左京区の友人家族の家
妊娠中、よくご飯を一緒に食べさせてもらっていた。夫婦が相当面白いので、一緒にいて飽きなかった。いろんな人を紹介してもらった。
京都の職場
多国籍なところで、感謝祭では仕事をしないでみんなで七面鳥を食べる。社長が抹茶を淹れてくれる。良いアイディアはすぐ採用された。社長の家のお手伝いさんに、残業しているスタッフのために繁忙期はスープを作ってもらえた。
穂高養生園、7泊8日円坐
ワークショップだったけれど、この場は、長かったから、ここの仲間は、もう一つの架空の実家みたいに感じている・・・。共にすごす時間の長さはもちろん関係するのだけど、その時間の濃密さ、は心に残るポイントかも。もちろん、、、、食事は美味しかったし、自然の中だったから気持ちが良かった!
自分で作ったカフェスローのギャラリー。
自分のイベントで場を作ったから、いくらでも好きに出来た。
好きな人たちにきてもらって、遊び倒して、最後は、そこで大好きな福島のお花に囲まれて、大切な友人のヌードを撮らせてもらった。自分で場を持つと、いくらでもアレンジができることを期間限定だったけれど、体験させてもらった、貴重な機会だった。
関わってくれた方に感謝しかない。
東京。近所のお友達のお家
いきなり訪ねて行って、ピンポンしても良い家って、すごく貴重。ありがたい。どこに何があるかわかるから、勝手にお茶やコーヒーを淹れることができる。Mi casa es su casaな感覚がある。
近所のカフェ、まめカフェ、ラクナさん
店主がお友達に近いので、おしゃべりをしに行く、感じで、訪問できるのがありがたい。
私にとっての居心地のよさと面白さ
「約束をしていなくても、誰かに会える。」
「そこにいる人が面白いから、偶発的に面白い会話ができる」
「食事を作って食べることができる、飲み物を飲める。」
「たべもの、飲み物が美味しい」
「初めましての時に、感じよく紹介できる住人、または店主がいる」
「常識を投げ捨てた感じでも過ごせる、面白がれる」
「自然が豊かな中で過ごせる」
「文化や新しい学びの環境がある」
「置いてある本が、自分では手に取らない深いテーマの本だったりするし、それについて解説してくれる人がいる」
「手仕事をしながらおしゃべりをする」
「好き勝手できる」
ここらへんだろうか。
保護者周り(保護される年代、または、保護する年代)の居場所の難しさ
大学以降って、やっぱり自分の力でそうゆう場所を開拓することは、かろうじてできたけれど、やっぱり中途半端な田舎の中学、高校だと、そうゆうサードプレイスってなかなかまともなのに出会えなかったなー。
変な塾で恋愛の斡旋をされたくらいだし・・・。
もちろん、その恋愛があったから、今の私がいるのだけれど。
子育てするようになってからは「お約束しないと遊べない」無言の文化、みたいなものを感じて、とてもやりにくさを感じたなー。最近は、子供自らナンパできるようになったから、だいぶ楽だけど!いい育ちをしている。ありがたいな。
今から、自分が、「場」を作るとしたら?
やっぱり美しい自然の中で、卵のおばちゃんと腰掛けておしゃべりしていたような縁側「も」ある、家兼作業場兼ブックカフェみたいなところかな?
緑の多い場所に、やはり緑の多い空間に、本もたくさんあって、そこでコーヒーやチャイを飲みながら、気を使わない仲間たちが集う場所を持ちたい。畳の空間もあって、子供達も遊べるところがいい。誰でも子供を連れてきてもらえるし、他の仲間が子供を抱っこするような場所がいい。
そこで、大人は暮らしの手仕事をしたり、しなかったりしながら、、「企みごと」の話や、ただボーっとしていたり。。。をしていたい。。。
余白の大切さ
結構いろんな要素が混じってるなー。
お客さん、店主、仲間、常連、、、、?
そうゆう区切りのあまりない感じがいい。関係性は、フラットがいい。そうじゃないと、企みは生まれない気がする。
理想的なのは、シェアハウスに、広場、テラス、縁側がついている、感じなのだろうか。
しかし、空間にも、関係性にも、時間にも、「余白」は大切だ。
何かが起きるには、「何もない」が必要だ。
触発してくれた対談はこちら
「カフェから世界はつくられる」の著者、飯田さんと、クルミドコーヒーの影山さんの対談ビデオを見ていて、ふと自分の人生における「場」を考えたくなったので、自分のための覚書。
対談はこちら。おすすめです。ぜひ聞いて。