振り返ってみると
この一週間、振り返ってみると、
肉体レベルかもしれないが、「楽しかった」と感じている。
週の前半はBlenderの勉強、後半にはお稽古に行って、
内弟子に入っていた男性二人が自分の国に帰るので、
最後のお稽古の日だということで、
お稽古が終わったあとに軽く宴会みたいなのになった。
しかも今、道場には海外の人が多く、
半分近くが海外の人だった。
さらにその宴会のときの会話は英語しか話されてなくて、
英語が喋れないのは私くらい。
ラファエルの勉強会のお陰でなんとなーーーーく単語が聞き取れる感じするけど。
それでも楽しかった。
昨日は諸用で久しぶりに会社に行った。
ここのところ五井先生の統一を祈る機会が多く、
多分昨日は今までで一番無意識のレベルでも祈っていたように感じる。
特に何があったというわけではないが。
形のレベルでは先輩に珍しく昼食を奢っていただいたりとかあった。
とにかくその前日のお稽古のときから続いているのは、
「この目に見えるもの、感じるものが私の心の反映でしかなかったと教えてください」という祈り。
山をやってたときにも感じたけれど、
私は特別な「誰か(個人)」がほしいのではないようだ。
特別な「異性」「関係」「彼氏・彼女」みたいな。
どうも「仲間」のほうがほしいと感じていた。
だから、真我なるハートの学習グループとか、
会社とか、道場の仲間とか、山の仲間とか、Blenderのオンライングループとか
そういうのに居心地の良さを感じる。
(真我なるハートの学習グループは時折しんどくなるので、時々いつまでいるんだ!?と聖霊に問うことがあるけど)
ふと思い出したけど、小学生のある短い期間、
学童保育に預けられていた時期があって、
あの頃あそこが一番心が安らぐ場所だったと思う。
家族の中にいたときよりも。
それが心の中のベースになっているのかも。
家族とは「特別性」とか「個別」とかが強く出ていたので、
苦しく感じていたのかも。
よく父が「家族だけが特別なんだ」
「家族だけがお前を助けられるんだ」←餌はくれるけど、いじめとか困ってるときには罵倒して助けないのに??
「家族だけを特別扱いにしろ」
そのへんが私が「特別な個人(家族)」を持ちたくない核になっているのかもしれない。
この特別性を感じた時、いつも苦しくなってる。
だから距離感が大事って思ってるのかも。
この距離感が保てるから「仲間」が心地よいのかも。