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友人という特別性

一番付き合いの長い友人との関係を自然消滅させることにした。
確か、20代前半に出会ってからなので、
かれこれウン十年の付き合い。
彼女はマシンガントークで、それを私が聞いてゲラゲラ笑う、
そんな関係だった。
会う前に、こういうこともあったことも話したいなと思っても、
途中で話が切られて、
そのまま友人のマシンガントークに切り替わってしまっても
まあいいやたくさん笑って面白かったし、で満足してた。

この間、仕事でのことで思うところがあってツールをやった。
そこで「私にも気づいて」という言葉が出てきて、
「私にも」ってこれは誰だ!?と思った。
でも確かにこれは「私」らしい。

仕事内容は私に「向いている」。
人間関係も「悪くない」。
家族の中にいるのと比べたら遥かに「楽」。
私が何かを表現をしたがっているのに、家族の中で抑圧してきたし、
仕事の中でも抑圧してきた。
抑圧をしすぎて、私が本当にしたいと思っている表現がなにか気になるのに、
それが何かがわからない。
仕事に日々追い立てられて、落ち着きたいのに落ち着けない。
仕事をすることで、表現をしている気になっている感じがする。

この付き合いの長い友人との関係は、
マシンガントークという表現に抑圧されることで
自分という存在が小さくなっていき、
自分(表現)がわからなくなっているのかもしれない。

友人との関係を終わらせることは、幾ばくかの痛みを感じるが、
家族との関係をほぼ完全に拒絶することを選択した時点で決まっていたのかも。


あの頃、会うたびにゲラゲラ笑い会う関係だった友人は、
ここ数年、もといここ10年は、
仕事をこの友人に押し付けて帰ってしまうという同僚への愚痴で話題の大部分を占めていた。
私自身、愚痴を聞くのは問題はなかったのだが…、
コースを学び始めて数年の頃、
一度も会ったことのない友人の同僚に対して、
突然の「ああ、この人は私だ!!  そりゃ、サボっちゃうよね!!」という謎の同一化??を感じた。
それをこの友人に話したら、
「じゃあ、あなたはサボるんだ!?」みたいなことを言われたが、
私というマインドはサボらないけど、
「この人がサボることは決まっている」そうとしか言えない、というか、そうとしかわからない。

一昨年だったかな最後に会った時に、初めて兄に暴力を受けていたこと、
両親との関係について話をした。
友人は一人っ子で兄という存在に憧れていたし、
一戸建ての家、物静かに見える私の母に対して
なにか憧れみたいなのを持っていたので、
それを壊すのはかわいそうかもと思って今までは黙っていた。
でも思い切って話した。
友人は逆ギレした。
死者(母)に鞭打つなんて!!
ご飯を食べさせてもらえていたんだからいいじゃない、我慢するのが当然、と。
(友人は同和地区に住んでいて、母には「関わるのを辞めなさい」と言われ続けていたことは友人に話したことはない)

友人はなまじっか霊感があって地縛霊を見る人なので、
死ぬことは気の毒なこと、肉体があることは幸せなこと、
という信念を私にどうすることもできないな、と最近やっと覚悟した。

まだ人間として付き合いを続けられればと思っていたけど、
どうやら「私が無理」みたい。

少ない友人を大事にしないと、とか、
友人でいてくれることに感謝して尽くさないとみたいなのを持っていたけど、
友人という存在に特別性を持っていたんだ。



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