小さきものの心を掬う

昨日、二人のマイティコンパニオンと会って話をした。
というか、飲み会になった。

それで、私が3歳ぐらいの頃に誕生日だったかクリスマスだったか忘れてしまったけれど、
父からプレゼントに何枚かシートでシールをもらった。
でも、その中でタコのシールが可愛くなくて、
捨てられない話をした。
マイティコンパニオンには、
本当はお父さんのことが好きだから捨てられないんだよ、
と言われたけれど、
「お父さんのことが好きなんだよ」とはコース以前から何人かの人に言われることがあって、
「やっぱり私の悲しみはわかってもらえないんだなぁ」と感じ、
私は父が好きなんだって言えばとりあえずその場はおさまるんだろうけど。

翌日、そのシールを天袋に入れたままの箱から取り出した時、
もう少しあの当時の小さい私がどう思っていたのか触れた。
あの頃、私の女の子友達界隈ではシールがブームで、
可愛いシールを持っている子に自分が持っているシールと交換してもらいたいので、
可愛いシールが欲しいとプレゼントのお願いをしたのだった。
それで色々なシールに喜んだものの、
タコのシールだけが可愛くなくて、どうしようと思った。
しかもそれが一番大きくて。
たぶん、父はこれが一番オススメなんだよ!!面白いだろ!!って
思っているんだろうな、喜ばないといけないんだろうな、
でも、私、面白いのより、可愛いのが良かったのに、と思っていて、
もし捨ててしまったら怒るんだろうな、と思って捨てることができなかった。
それがこれ↓

大人の目で見たら、そんなに悪くはないけれど、やっぱりいらないかな、タコのシール

右側のシールもそのプレゼントでもらったものなんだけど、
当時の友達と交換してもらったシールを貼ったりして、
元の状態がわからなくなっている。

その辺の話をメッセンジャーで二人とやり取りをしてて、
ふと、あの当時、私は水森亜土が好きだったことを思い出した。
絵がメルヘンで可愛いことと、
しかも黒板みたいな板やガラスに、
歌を歌いながら下書きがないままスラスラと描いていて、
私もあんなふうに自由に心のままに描きたいと思った。
でも保育園児の頃、クレヨンで自由に心のままに描いていると、
そのレベルでは食べていけないぞ、売れる画家はもっとすごいんだぞ、
と父が覗き込んで言うので、
絵を見られないように腕で覆い隠して紙の片隅に小さく描くようになり、
作品を完成させられなくなって、
中途半端でやめてしまって捨てるようになっていた。
(学生の時、授業でなら大丈夫なんだけど。ポスターや絵画で賞を取ったこともある。でも放課後に友人たちと絵を描くとかしてると、元に戻って完成させられなくなっていた)

私は小さな私を解放してあげたい。
どうせ責められるって自分の心を閉ざして、
広がることから逃げて怖がっている。
広がっていいんだということを聖霊に教えてもらいたい。
父は本当はいなくて、
私は無価値だって思っていたその結果に過ぎない
ということを聖霊に教えてもらいたいんだ。


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