記さないと忘れる

covid-19の影響で中止になったベネツィアのカーニバルから帰って来た僕が咳をしていると、心配性の嫁は大学病院で検査出来るように手はずを整え、検査を受けるか逡巡する僕を否応無しに家から送り出した。

部屋はパソコンもサランラップで包まれたあまり物が置いていない大学病院の一室だった。2月末日のベルリンはまだ新型コロナウィルスの騒ぎが大きくなる前で、検査を受けに来ているのは僕だけ。検査に来た医者は慣れない手つきで、喉の粘液に触った手の平の2倍はある綿棒をそのまま鼻の奥まで差し込んだ。 ー それが最初のPCR検査の記憶。

陰性という検査結果は2日後に保健所からの電話で知らされる。それからヨーロッパ中で新型コロナウィルスによるロックダウンがはじまった。

新型コロナウィルスの第1波が引いて行くにしたがって、仕事が少しずつ戻って来ると、コロナ対策をとってから仕事へ行かなくてはいけなくなった。マスク着用や手の消毒はもちろん、ピンマイクやワイヤレス送信機といった人に触れるものを消毒しておかなくてはいけない。また、PCR検査を撮影の3日前に受けて陰性証明を提示しなくては仕事が出来ない時もある。

PCR検査に慣れていた僕が6回目の検査を受けた後、すこし喉に違和感を感じていた。そして、その違和感は検査結果の知らせに赤いラベルが付いているのを見た時にも感じた。

ポジティブ。その時を見た時

2020年の年明けには中国から小さなニュース程度にしか聞こえてこなかった新型コロナウィルスは、2月末にはベネツィアでの仕事が途中でキャンセルになる程猛威を振るい始めていた。家路に着いた翌々日にPCR検査を受けた大学病院の検査場は、中国帰りの人用に特別に設けられた入り口の外にポツンと待たされた。完全防護服に身を包んだ人を始めて目の当たりにし、パソコンまでサランラップで完全カバーされた部屋で、手の平の2倍ほどの長い綿棒を口に入れられた後に鼻に突っ込まれた時は、順序が逆じゃなくて良かったと思うしかない程、新しいウィルスを検知するにはこの方法しかないのかと受け入れるしかなかった。

その検査を受けた翌日には保健所から電話があり、症状の有無や検査結果が出るまでの過ごし方から、陰性が出た後でも様子を見るために隔離しなくてはいけない事など丁寧な説明があった。

そして私の仕事は3月からキャンセルが相次ぎ、バタバタと6月まで入っていた予定が全て消えていった。政府からの助成金支給が早かったお陰で、すぐに困窮する心配がなくなった私の生活にはドカンと時間だけが目の前に置かれた格好になった。何か新しい事を始めなくてはいけない。オフラインがダメな時期、オンラインでやれる事をやるんだ。動画ならYoutube。音声ならVoicy。文章ならnoteだと頭の中では企画が色々立って行くのだが、どのスイッチもオンとはならない。周りでは色んなスイッチを押しまくっている人たちが居て、危機をチャンスに捉えるように世間では声高に叫ばれているのを余所目に一文の文章すら残さなかった。

さて、そんな僕がどうして初ノートを今更書く気になったのか。実に明快で、covid-19に罹ったから。きっと記さないと苦しかった事すら忘れてまた日常へとフェードインしていくのがちょっとやるせないのだ。

さて、前置きが長くなってしまったが、僕の初PCR検査から半年後、仕事が戻り始めてから3回検査を受けて全て陰性の結果が出ていた。5回目の結果も陰性だろうと楽に構えていた時、突然陽性の知らせが届いた。

仕事のことやら家族のことやら色々とあるが、まずはその症状だ。最初は喉の痛みだけだったのが悪寒に始まり高熱が出る。最初の2日はその繰り返しで常に頭痛があるが倦怠感もあいまって、なにも出来ない。その後熱は下がって行くが今度は頭が割れるという形容がピッタリな程の痛みが継続的に続く。イブプロフェンしか家にはなくて400mgを2錠飲んでいっときの休息を得るようなものだった。それが2日程続いた。やっと頭痛から解放されてようやく何か食べれるかなといった時に初めて味覚と嗅覚がない事に気づく。熱い冷たいや硬い柔いの感触は口の中で分かるのだが、甘い・苦い・酸っぱい・辛いと何もわからない。旨味なんて成分は分かるわけないから食べても悦びを感じられない。 一瞬で周りの風景が白黒の映像に変わったようだった。
子供の時に夕食後に食べていた、グレープフルーツの半身の真ん中に砂糖を山盛り乗せて、スプーンで広げながら酸っぱい実に砂糖を馴染ませていたカラーフルな記憶が、口に入れても甘さも酸っぱさも感じなくショックだけを残してくれた。


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