毎朝5分の自分語り 2021/08/28
主体性を持って仕事に取り組む
とか
当事者意識を持って仕事に取り組む
とか
やらされ感のない仕事
とか言うが、結局仕事をやりたくてやっている人なんて、ppmレンジでしか居ないだろう。
当事者意識というのは、責任を押し付けることによって作られる。
例えば、この仕事が成功しなかったら降格・減給・解任・解雇などのマイナスの約束をするか、成功した場合の昇格・昇給などのプラスの約束をするか
もしくは明確に約束をしないものの、失敗を許さない空気を作り出すかのどれかだろう。
プラス面はちょっと弱いし、作業者の直上の中間管理職からしたらプラスもマイナスも約束できる権限が無いので基本的には空気を作り出すことになる。
真綿で首を絞める的なパワハラだ。
今となっては明確なパワハラは許されないので、陰湿ないじめみたいな構造をとるか、人情に訴えかけるといったことしか通用しないだろう。
冷静な人であれば、そういう空気を作ったり何を言っても結局ルール的に自分の不利益になるようなことって極論法的に難しいでしょ?
と気づいている。
特に私のようにロートルは、そういったズルい生き方を見たり聞いたり体感したりしているので、素直に言うことを聞いたりしない。
年寄りが使いにくい
若い人が欲しい
といった意見にはこういった側面もあるだろう。
主体性とやらされ感のない仕事というのは、ほぼ一体化した話だ。
主体性があるのにやらされ感でやっている人はほぼほぼ居ないし、やらされ感で動いているのに主体的に動くことはほぼ不可能だ。
可能性があるとしたら、借金返済のためにどうしても稼ぐ必要があるとか、別のやりたいことをやるために必要だとかだ。
その場合は別の目的のために最適化された行動になる。
前者の場合は金銭の利益を最優先し、後者の場合は終わらせることを最優先する。
どちらも品質は優先されない。
品質をも優先した主体性を持つ仕事というのは、自分がやりたいかやりたくないかだけで主に決まると思う。
確かに主体性を持って仕事に取り組むことができれば、その人の持つエネルギー全てがその仕事に注がれることになり、品質も速度も労力も最大値を記録することになり、本人の成長も大きくなる。
しかし、本人がやりたいか否かというのは本人の主観が全てで、しかもコントロールはできない。
洗脳したりしたらできるのかもしれないが、多分合法的には難しい。
どのくらいコントロールできないかというと、本人でもコントロールできない。
初めは「これがやりたい!」と本音で思って宣言した仕事でも(こんなはずじゃなかった)と取り組む中で後悔したりすることもある。
初めは「こんなんやりたくない」と仕方なく取り組んだ仕事でもやっているうちに(あれ?これ面白いぞ?)と考えを変えたりする。
以前は面白かった仕事でも2度目は飽き飽きするかもしれない。
1度目は嫌々やっていた仕事でも、前回わからなかった面白みを見つけたり、前回うまくいかなかった反省点を生かすことが出来ることに喜びを感じたりする事もある。
なので、主体性は基本的に仕事と本人の受け取り方のマッチングであり、そのマッチングは予想も制御もできない。