[6] 中国残留日本人孤児の帰国をめぐり、「終わりなき旅」のまだ終わらないことについて
――赤ん坊の時に中国人家庭に引き取られ、中国語を話し中国の文化に育ち、教師や医師になった人まで永住帰国を望むのはなぜだろう。
――あの年齢で一から日本語を学び、職を得て生きていくことができるのだろうか。
――中国に残された養父母はどうなるのだろう。
中国残留孤児の肉親捜しが始まった時、まだ自分につながっていると気づかず、ぼんやりと肉親との対面をテレビ画面で眺めてこんな疑問が湧いてきた。
結局日本語を充分習得することができず、仕事に就くこともままならず、経済的にも困難な生活を送り、帰国者たちは年老いていく。
日本人であっても言語も文化も異なる人たちであった。日本人だからといって40年の時空を簡単に超えられるわけではない。
短期間で日本の社会になじむことは難しいということは、当時でもわかっていたのではないか。
その人たちの前には、ずっと日本に育ち暮らしている人たちと同じ「日本人」になる、というたった一本のレールしか用意されていなかった。それは日本が植民地で行った同化政策を思い起こさせる。
埴科郷開拓団の団員だった斎間新三さんは見つかった我が子に、中国で自分の使命を果たし、日中の懸け橋になるよう諭して帰した(『黄の花びら』斎間新三著、郷土出版刊、1987年)。大事に育てた子を手放す覚悟をしていた養父は喜んだ。斎間さんはほかの孤児たちにも永住帰国は勧めなかった。それは正しい選択だったかもしれない。
井出孫六『終わりなき旅―「中国残留孤児」の歴史と現在』(2004年、岩波現代文庫)を読了した。
長いこと「これから読む資料」のリストに入っていたが、読みはじめたのは今年10月に著者の井出さんが亡くなってからだ。
自分なりに『長野県満洲開拓史』(全3巻、1984年、長野県開拓自興会満州開拓史刊行会編)の名簿篇と、引き揚げ者の体験談や戦時中に渡満者を取り上げた新聞記事などを突き合わせていくと、その家族の足跡をある程度辿れることがわかってきた。
井出さんも同じようにして開拓団員とその家族を追い、そのうえに取材を重ね、中国に残された子どもたちの肉親捜しや永住帰国をめぐる問題に踏み込んでいく。
『終わりなき旅』には中国から帰国した人たちについて、精神医学の立場から「移民の一亜種」ととらえるべき、という医師の話が紹介されている。しかし国の受け入れ体制は日本という異文化に適応するための方策も経済的な支援も充分でなく、帰国一世、二世の人たちの心の問題は置き去りにされた。
今手元にある『終わりなき旅』は2004年刊の文庫版だが元は1986年に刊行されている。
その後、1993年に12人の中国残留婦人が「強行帰国」した。13歳以上は自分の意思で残留したとして、国の支援はほとんどなかった。望んで中国に残ったと、誰が考えたのだろうか。
先日テレビで、高齢になった一世、二世たちのための介護施設のことを報じていた。中では中国語が話されているという。
日本に来てよかったと思っているだろうか。後悔はないだろうか。
中国では日本人と呼ばれ、日本では中国人と言われてきた人たちのさまよえる旅は終わっていない。
1945年8月。軍人家族は避難させたが軍事上の理由で開拓民は何も知らされず、ソ連軍の攻撃で多くの死傷者を出した。集団自決も起きた。敗戦後、国は日本人は現地に留まらせる方針を取り、引き揚げが遅れたため、極寒の中、病気や飢えで子どもなど弱いものから亡くなった。引き揚げは中国に日本の影響力を残すことを恐れたアメリカ主導で始まる。
その後の中国に残された子どもたちの捜索は国ではなく民間によって行われていた。やがて帰国した中国残留孤児たちは国から適切で充分な支援は受けられなかった。
敗戦後に中国をさまよった開拓民を「棄民」と呼ぶ人もいる。
国から捨てられた国民という意味だ。
戦争は国と国が争い傷つけあうだけでなく、国が自国民、とりわけ弱い立場の人たちに犠牲を強いる。今もその人たちが救済されていないのを知ると戦後の長い平和は偽物だった気がしてくる。