2つの木蝋と2つの製蝋機 東北と西日本における製蝋用具の違い
みなさんこんにちは!先日、愛媛県内子町にある「木蝋資料館上芳我邸」に行ってきました。木蝋資料館では年に1度地元の内子中学校の生徒向けにハゼノキの蝋絞り体験を実施しており、そちらを見学させていただきました。そちらの様子はまた別の形でレポートしたいと思います!さて、先週はこの時期に特に気を付けなければいけない「ハゼノキのカブレ」に関して書いていました。この時期必読です!そのな先週の記事はこちら。
木蝋資料館は重要有形民俗文化財として登録される、製蝋用具1444点を所蔵しています。その資料館でもひときわ目を引くのが「立木式蝋絞り機」です!でかい!!実はこの立木式、広島式とも呼ばれていたりします。理由はこの道具を導入するにあたり、安芸の国から技師を招聘したことに由来します。薩摩藩も立木式を導入する際、安芸の国から技師を招聘しています。という事で今日はそんな木蝋の製蝋機に関するお話です。
■漆蝋と櫨蝋。製蝋用具の違い
現在でこそ木蝋=ハゼノキを使った櫨蝋ですが、日本における木蝋は漆蝋から始まっています。いつごろから漆蝋作っていたのか正確なところはわかっていませんが、遅くとも15世紀中ごろまでには会津で漆を使った製蝋が始まっていたようです。漆蝋は東北を中心に、櫨蝋は九州を中心にそれぞれが発展していくのですが、木蝋製造の原点は東北にありました。
東北地方における当時の漆蝋の製造方法を知るうえで、とても貴重な資料が福島県猪苗代町にある会津民俗館に「会津の製蝋用具及び蝋釜屋」として、重要有形民俗文化財として用具976点、1棟が保管されています。これは内子町の木蝋資料館が所蔵する、同じく重要有形民俗文化財である「内子及び周辺地域の製蠟用具」と併せて漆蝋、櫨蝋の製蝋を比較する非常に貴重な資料群となっています。
両者が使っていた用具は形や使用方法が酷似している物が多く、実の収穫から製蝋にいたる工程が東北から九州に伝わり、発展してことを感じることができます。しかし、「製蝋機」に関しては見た目が大きく異なります。製蝋する原理は全く同じなのですが、東北では明治以降も使われていた「横木式(地獄絞り)」、西日本では、より大型化し効率化を図った「立木式」、製蝋方法は2つの系統に分かれていきます。
■横木式蝋絞り機(地獄絞り)
まずは漆蝋、横木式蝋絞りのお話から。実はこの用具がいつごろから使われだしたのかは漆蝋発祥の下りと同じくよくわかっていません。15世紀~16世紀にかけて発展し江戸時代には広く使われていたようです。この方式は会津藩だけでなく、庄内藩、盛岡藩など漆の主たる生産地でも広く利用され、17世紀後半には会津の金山職人を通じて薩摩藩に導入され、九州中へ広まっていきます。島原では水没していた横木式が出土し、現在も貴重な史料として見ることができます。
西日本各藩との大きな違いはこの「横木式」が用具として変化することなく江戸末期や明治時代まで使われ続けたという点(最終的には昭和36年まで使われていました)です。1889年発刊の『漆樹栽培書』や『日本その日、その日2』の1878年(明治11年)の記録して、漆蝋の製造方法として横木式を使った製蝋方法が紹介されています。江戸時代後期には西日本の櫨蝋に押される形で漆蝋自体の生産は減少していきますが、製蝋方法は300年以上変わらずに受け継がれることになります。
横木式のポイントは作業スペースを小さくできることでした。用具の製造費用も安く抑えることができ、1人作業も可能だったようです。会津民俗館にある昭和中期まで使用された蝋釜屋(製蝋小屋)は非常にコンパクトで、実の臼引きから、蒸し工程、絞りまですべて行えました(内部はものすごく暑かったそうです)。横木式は小規模分散型の製蝋方式の側面があり、櫨蝋によって生産が縮小されていった東北地方の製蝋法として最適だったのではないでしょうか。
■広島式?大坂絞り?立木式蝋絞り機
一方で江戸時代後期に登場するもう1つの製蝋機が「立木式」です。櫨蝋の製蝋機として江戸時代後半から各藩で導入が進み、導入が遅かった薩摩藩でも1839年に導入されます。九州各藩も初めは会津藩から薩摩藩に伝わった横木式を使っていましたが、『農家益・後編』(1811年・文化8年)が発刊されるころには薩摩藩以外にはほば普及していたようです。
立木式の特徴は大型化と製蝋効率の良さでした。最後に立木式を導入した薩摩藩の記録によると横木式と比較して2割以上効率がよく、江戸時代後期における木蝋生産量の増大と併せて、より多くの木蝋を効率的に製造できる立木式を使用した生産に移行していったと考えられます。立木式は大規模集約型に向いた製造方式であり、需要の増加に合わせた必然的な用具の変化だっととらえることができそうです。
では西日本各藩はどのように「横木式」から「立木式」へと製蝋方法を変えていったのでしょうか。実はこの立木式蝋絞り機、内子町(愛媛県)では「広島式」、薩摩藩(鹿児島県)では「大坂絞り」という別名を持っています。ともに安芸の国(広島県)から製蝋技師を招き、技術顧問として登用し立木式を導入したのですが、一方は広島、一方は大坂の名前を冠しています。共通しているのは安芸の国の技士です。
となると立木式は広島から伝わった。と考えるのが自然ですが、この立木式は江戸時代初期から菜種油の一大産地であった、大坂の遠里小野で使われ始めた「しめ木式(矢締め式、油搾木式)」と構造や搾油原理も同じだったりします。余談ですがこのしめ木式の搾油方法は油業界にとって革新的な技術発展でもありました。
ここからは想像ですが、江戸時代の油市場は大坂が中心であり、大坂倉庫を管理する役人や商人が非常に大きな力をもっていました。江戸時代中期から急速に広がり始めた櫨蝋を着目した大坂商人が、より大規模に効率的に木蝋を生産するため、この技術を広島の技士を通じて西日本各藩に伝えたのではないでしょうか。これは大正時代から導入される「玉締めによる圧搾機」で菜種油も櫨蝋も同じように搾油されるよになることから、菜種と櫨は江戸時代以降から同じ系統の用具を使うという共通点もあります。
ん?でもなんで広島なの???内子町も薩摩藩も安芸の国から技術者を呼び寄せていますが、広島側にそれらしい記録が残っていません。なぜ製蝋の技術といえば安芸の国だったのか?新しい疑問を残して今週は以上となります。続きは新しい資料がそろい次第になりますが!お楽しみに!