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小説「弾けた」

バトンが空から落ちてきて、おれは失恋のかなしみが弾けるのを感じた。

初夏の夕日が沈もうとしている中、おれは住宅に囲まれてすでに真っ暗の、どの家からも完全に死角になる場所で足を止めていた。
その無言の空間で、しばらく「死角」という言葉について考えてしまうような少しばかり危うい人間になりつつあった。

そんな場所で金属が弾けるような音が一度カキンと聞こえたとき、おれはかなしみを全部、頭の底からもんじゃみたいに剥ぎ取ってしまって「ひょっ」と柄にもない高く大きな声をあげた。
おれの「ひょっ」は住宅街の壁を二、三回跳ねてから耳に帰ってきた。同じように金属音も何度か跳ねて止まる。嘘みたいに静かになる。

どこかの子どもが室内で遊んでいて間違えて外へ放り投げてしまったのだろうと反射的に判断して上を見上げたが、そこはさすがの死角で、家の窓なんて一つも見えやしなかった。それに一人も住んでいないのではないかと思われるほどこの街は静まりかえっていて、子どもなんかいる気配がない。バトンは誰かが投げたものに違いないだろうが、秘密裏にしかもおれを狙ったんじゃないだろうか。

それは公衆便所のトイレットペーパーの芯を少し長くして、薄い金メッキを施したような、見事なまでに安っぽい汚れたバトンだった。側面を舐めるように見回し、真ん中に空いた穴の中も確認した。字も何も書いていない。
さっきまで「暗闇が」とか「死角が」とかいう言葉を吐きながら危ない人間をしていたというのに、いまはもう立派に捜査を始めようというのだから、おれの失恋とは気楽なものである。

こんなことをするのはそうだな、たとえば、あいつじゃないか。B組の佐藤。佐藤は今日、おれが掃除の時間に黒板消し二つを窓の外で叩いているときに後ろで楓ちゃんとべらべら喋ってたんだよ。なにがそんなに面白かったのか、あいつが大笑いした瞬間、その瞬間にだ。教室に向かって強風が吹いたんだよな。ほら、あいつ引き笑いだからさ、笑いながら黒板消しから出るチョークの粉を全部吸っちゃったんだ。可哀想な男だよ。顔を真っピンクにしたままずっとむせてて、楓ちゃんは心配してたのに、おれは耐えきれず少し笑っちまったんだ。それを見られてたんだろうな、すまないことをしたな(おれの叩いていた黒板消しは英語の田代先生が使ってた奴だったんだ。田代先生はヤンキーみたいな髪型をして、これ白だぜ?みたいな顔をしてピンクのチョークで文字を書いていく。たぶん、サングラスを着けているから色の見分けがついていないんだ)。

もしくは、あいつじゃないか。E組の下林。おれだけ彼のことをずっと「アンダーザツリー」と呼んでいる。あいつは「林はツリーじゃねえ。groveだ」ってgroveだけ発音が滅茶苦茶良いんだ。ガロウヴってね。別にわざとらしくないからいつも面白くてクスクス笑っちまうんだけど、それがあいつの癪に障ったんじゃねえかな。あと、あいつは「常実」って名前だから、たまに「エブリデイ・フルーツ!」って呼んでたのもあまり良くなかったな。すまないことをしたよ。バトンを投げられたってしょうがない。

またはあの人かもしれない。A組の米倉さん。おれと同じく自転車登校で、毎朝同じ路地を曲がって出てくるんだけど、後ろからおれがチャリを漕いでるのに気付くと必ず一段階ギアを上げるんだ。どうしたって追いつかない。おれがスピードを上げると、彼女もスピードを上げる。おれのどこがそんなに気に入らないのか全く解らないけれど、多分おれのことだから知らず知らずのうちに嫌われるようなことをしちまったんだろうな。
米倉さんは高城とも仲が良いから、聞きたいことがたくさんあるのに。

なんで高城はそんなに色が白いのか。なにか特別な美容液でも使っているのか。
なんで高城はそんなに睫毛が長いのか。海外の化粧道具でも使っているのか。
なんで高城はそんなに瞳がきらきら光っているのか。芸能人が使うようなカラーコンタクトを着けているのか。
なんで高城のことを考えるだけで三十四点も数学の点数が落ちるのか。
なんで高城はこの間フランスパンを小脇に抱えながら小走りで帰っていたのか。
なんで高城は田代先生なんかに声色を変えるのか(田代先生はサングラスだから色はわからないんだぞ!)。
なんで高城はそんなに綺麗な発音で英語を話すのか(やっぱり下林とは大違いだ)。
なんで高城はバスケットボールを投げただけでそんなにおれを惹き付けるのか。
なんで高城を見るだけでこんなに鼓動が速くなるのか。
なんで高城はそんなに可愛くて、なんでそんなに美しいのか。
なんで高城はおれじゃだめだったのか。

日は暮れた。
また悲しくなってきて、バトンを側溝の脇にそっと置いて死角の街角から抜け出すことにした。結局、バトンが落ちてきた場所は分からずじまいだ。
腹が減った。肉まんが食べたい。

近所のコンビニで肉まんを二個買い、家に帰った。今日は玄関がいつもより重くてうんざりするよ。
電気は点けないで、手探りで室内を歩いていたらローテーブルに膝を打って悶絶する。なんていう日なんだ。その拍子に床にあったリモコンを指が触った。テレビが点いた。ぼーっと明かりに目を向ける。

ニュースだ。サンシャイン水族館でペンギンの赤ちゃんが行進だとさ。可愛いね。高城さんよりは可愛くないけどな、ふはは。北京オリンピックで男子リレーチームが銅メダル?どうだっていいや。おれは運動なんかできないんだからさ。どうせ佐藤みたいな奴が格好つけて走ってんだろう。

それにしても実況が声を荒げている。
「ニッポンは良い位置だ、さあ朝原バトンをもらった。朝原が走る。現在ニッポンは三番目、現在ニッポンは三番目」
おれは目をそらし、暗闇に視線を逃がす。やはりこの朝原という男、将来の佐藤みたいな風貌をしている。

「現在二位につけている、現在二位につけている。ニッポンが二番目だ、ニッポンが二番目」
画面がワァっと明るくなった。ゴールしたようだ。スタジアムの観客が波打っている。そこで画面が切り替わった。日本の選手たちが結果を待っている。

「ニッポンは銅メダルを獲得しました」

キャスターの明るい声の向こうで、驚いたような表情の『将来の佐藤』が力いっぱいバトンを空に放り投げた。
スタジオに映像が戻ってくると、キャスターは冗談めかして最後にこう付け加えた。

「朝原選手が投げ上げたバトンは、なんと未だに見つかっていないそうです」

(了)



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