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生まれる という自他一如・啐啄同時~世界の再誕生

生まれる って不思議な言葉

生まれる って不思議な言葉です。
なんていうか、 主語が 赤ん坊の私 でも 母 でもなく なにか大いなる命/未知の可能性 で、それが子という形になって現れる みたいなニュアンスがある。

母が 産む けど 母に産まされたわけではない
自分が 生まれようとして(ぐるぐる回りながら)生まれるけど 出る とか 走る みたいな自分の意志だけではない 意志 がそこにはあるように思う。

啐啄同時で、母と子がシンクロしながら生まれ、お互いにホルモンを出し合いながらプロセスも進む。そこには父や、宇宙・世界の神秘も参加していて、野生そのものでもある。

英語でも be born と受動形 になっていて 大いなる力によって現れる 感じがある。

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翻って社会での現状は?

生まれる は とてもコントロール下にある。出産は病院や社会のスピードの都合で時間管理され、麻酔もあったり、自然のままではない。それは文明が自然を野蛮とみなして野生の知をないがしろにしてきているからで、それは自然と人を分離して完全な安全安心を得たいと欲したからでもある。便利さや安全をやりすぎてしっぺ返しをくらっているのだ。

そして、今、コントロールは私達自身の命にまで及んできた。生命倫理。
DNA操作、延命。未病・・・

そして精神科学の工学的利用。精神や心理学が進むのはいいけれどその利用の仕方が、自らをモノのようにコントロールしすぎではないか? 自らの創造性をお金や誰かのために差し出してはいないか?それは本末転倒ではないか?

そう 現代は 生まれる ではなく 産まさせられている 生まさせられている のではないか? 

現代は 生まれる ではなく 産まさせられている 生まさせられている のではないか?

誰に?

権力に? マネー市場経済に? 全体のために?

例えそうだとしても、選択は自分がしている

自分は何を選択している?

自分で責任を取らないこと、決めないこと、消費すること、責められないこと、評価されないこと、暴かれないこと、目立たないこと、傷つかないこと・・・

そうならまるで生きることは苦のようだ
せっかく生まれてきたのにね

再びもう二度と傷つきたくないからなんだろうか?
(誕生、周産期、生育時、以降 の体験も関係かな)

でもこれは負のループ・悪循環で、私を生きないことで、究極の安全=死を選択していることによって、私の可能性は縮み隠れてしまうので、歓びもまた小さくなってしまう。(コロナはそれを教えてくれている気もする。)

恐れを超える って考えがちだが、それもまた頑張れマッチョ(男性家父長制優位社会)かもしれない。それはある種の社会的・集合的トラウマだ。

個人というよりは発展進化せねば、イノベーションせねば という発展人類ファシズムの中にいるかのよう
(いい意味では種、人類としての進化だけれど、これはやはり全体主義にしか思えない。気候変動のための人工削減エリートテクノ主義と近い)

発展進化のグローバルファシズムから多様性の生命賛歌へ

みんなが頑張れマッチョでは難しいとすれば、

恐れは恐れで一緒にいていい

弱いところは弱いところのままで、そのままでいいよ っていう世界であればいい 

そのままで安全安心な場 それをつくることで それぞれがそれぞれのかけがえのない命を生きられるのではないだろうか 本来の命を生かすことができるのではないだろうか 恐れはそのままに 力を抜いて 深呼吸する中で 本来の 私・命 が 生まれてこれるのではないだろうか

そしてそんな 愛ある世界もまた生まれてくるのではないだろうか

そんな #生まれる  を お手伝いしよう。


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