ゴッホの名画 気まま散歩
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853 - 1890年)の名画を、思いつくままに観ていきましょう。
ゴッホが一生の間に居住した場所をおおまかに分類すると、次のようになります。
1853年3月30日 オランダ南部のズンデルトで生まれる
主にオランダやベルギーで生活 画商の仕事でロンドン・パリを訪れたことはある
英国で教師をしたり、聖職者を目指したこともあるが、結局、画家の道へ
1886年2月(31歳) パリに移る
1888年2月(34歳) フランス南部のアルルに移る
1889年5月(36歳) アルル近郊の療養所に入る
1890年5月(37歳) パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズに滞在
1890年7月29日(37歳) 死亡
まず、ゴッホの死の1週間前に仕上げた作品を観てみましょう。
1. シャボンヴァルの茅葺きの砂岩小屋 チューリッヒ美術館 1890年7月23日
タイトルにあるシャヴォンヴァルは、ゴッホ終焉の地、オヴェール・シュル・オワーズに近い村の名前です。彼が滞在していたラヴーという宿からこの村に出かけて、重い茅葺き屋根に押しつぶされそうになって、朽ち果てようとする農家の連なりを描いています。
左下に二人の農夫が描かれていますから、一番手前の家は住んでいるようですが、他はどうでしょうか。右端の遠い方の家は、しっかりしてそうです。その間の家々は物置か放置になっているかもしれません。
ゴッホは、オヴェール・シュル・オワーズに着いてから、茅葺き屋根の描き方を研究していると、弟テオに手紙を送っています。絵への飽くなき執念を持っていました。
ゴッホが亡くなったのは1890年7月29日ですが、27日に宿に帰ってきた時には瀕死の状態でした。銃で自分の胸を撃ったのではないかとされています。その深い傷が原因で、2日後に帰らぬ人となったわけですが、その1週間前に描き上げた作品がこの「シャボンヴァルの茅葺の砂岩小屋」です。でも遺作ではありません。この後に描かれた作品があります。しかし、遺作については確定はしていないのです。
茅葺き屋根が崩れかけた家が数軒あり、手前の農夫も顔が見えず、なんとなく不気味な感じがしないでもない作品です。1週間後の彼の運命を知っているから、そう感じるのかもしれません。
ゴッホには心の病があったため、自殺とするのが定説ですが、いまだに他殺説も取り上げられています.
ゴッホの最後の宿があったオーヴェル・シュル・オワーズでは、宿の娘アデリーヌの肖像画を3つ制作しています。その3作とも1890年6月の制作で、「シャボンヴァルの茅葺の砂岩小屋」より、1ヶ月ほど前のことです。この肖像画には暗い雰囲気は感じられません。
2.「アデリーヌ・ラヴーの肖像」 ナショナル・ギャラリー ロンドン 1890年
モデルは、ゴッホの最後の住まいとなった宿ラボー家の娘アデリーヌです。彼は、貧しくてモデル料を払う余裕もないので、自画像や身近な人をたくさん描いています。若い頃は、農民たちをつかまえては描き、嫌がられるほどだったと逸話もあります。
まだ幼さが残る娘アデリーヌの横顔を描きながら、ゴッホは何を思ったのでしょうか。これから彼女に訪れる青春時代に羨望を抱くとともに、彼女の未来に幸多かれと願っていたのかもしれません。
彼女も待ち受ける将来に不安を抱きながらも、希望を持っていることが表情から伝わってきます。絵のモデルになったのはおそらく初めてだったでしょうから、恥じらいも感じられます。
モデルのアデリーヌ・ラヴー(1877-1965)は、この時13歳でした。晩年は、貴重なゴッホの証言者として有名になりました。彼女によると、午前から絵を描きに出かけ、お昼には宿に戻り肉と野菜の昼食をとって、また出かけるという生活で、ラヴー家の人たちに尊敬されていた証言しています。
ゴッホは、この絵の2ヶ月後にこの世を去ることになるとは、思ってもみないでしょう。人間にとって、自分の死期を正確に予想するのはむずかしいことです。
では、死の2年前の作品を観てみましょう。
3.花咲く果樹園(スモモの木々) スコットランド国立美術館 1888年
透視図法でたくさんのスモモの木を、近くから遠くまで描くことで遠近感をもたせて、さらに、スモモの間からは遠くに赤い屋根のガス工場が描かれています。
この絵はゴッホが南フランス・アルルでの最初の春を迎えた1888年に描かれました。彼はアルルの天候をとても気に入り、楽しい気分で取り組んだことが、絵全体からみてとれます。アルルの天候は日本と似ていると喜んだそうです。日本は憧れの国だったわけです。
実は、この風景画には遠景のガス工場の他に、農夫と馬が描かれています。どこにいるか分かりますか。
左側の背景に、青い服の農夫が白い馬を使って鋤で耕す農作業をしているのが見えます。
「アルルの天気は、絵を描くには最高だなあ」と、つぶやきながらこの絵を描いていたのかもしれません。明るい絵全体からポカポカした空気感と幸福感が、伝わってきます。
4.野牡丹とばらのある静物 クレラー・ミュラー美術館(オランダ オッテルロー) 1886 - 87年
SOMPO美術館「ゴッホと静物画」展
この絵を見た時、SOMPO美術館のゴッホ展の展示だけど、これはゴッホではないよね、というのが私の第一印象です。
やはり、当初はこれがゴッホの作品かどうか疑問があったそうです。大きさも彼の絵にしては大きすぎるとされ、繁茂する花々や筆のタッチがゴッホのものとは一貫性がないという見方が一般的でした。そのため、「作者不明」で展示されていた時期がしばらくありました。
X線調査で、この静物画の下には、2人のレスラーの胴体が描かれていたことがわかっています。
2012年に、オランダのクレラー・ミュラー美術館やゴッホ美術館などの専門家チームによるX線の調査により、ゴッホ自身が二人のレスラーを描き、その上に花の静物画を描いたと判定しました。
ゴッホは、カンヴァスを買えないほど貧乏だったので、一度描いた絵の上に、別の絵を重ねるということを、何度もやっています。
この判定は、絵画調査の技術や機器の発達も一つの要因とされています。そのため、今後これまで贋作とされていた絵が真作と判定されたり、その逆のこともありうるのかもしれません。
では、ゴッホらしい花の静物画を観てみましょう。
5.青い花瓶にいけた花 クレラー・ミュラー美術館(オランダ) 1887年6月頃
フランス南部のアルルに来る前の、パリ滞在2年目の作品です。ゴッホは、1887年の夏だけで少なくとも30の花の静物画を描いています。花の色のコントラストを試すために描いたとされています。
ゴッホは、研究心旺盛でさまざまな技法を試すために描いていて、売ることは二の次だったのでしょう。だから、存命中はほとんど売れませんでした。
この絵では、色の試しの他にも、背景を点描画法で描き、テーブルはひと筆が長いタッチになっています。花の描き方とは明らかに違います。画家ジョルジュ・スーラなどが始めた点描画法の新印象派と、従来の印象派の技法を組み合わせるという実験をしています。
パリに移ってからは、画商の弟テオを通して、ルノワール、モネ、ピサロなどの有名画家たちからの影響と交流があり、さらにさまざまな技法を試しながら描いています。
6. 日没に種をまく人 クレラー・ミュラー美術館(オランダ) 1888年11月
ゴッホがパリに移ってから受けたもう一つの大きな影響が、浮世絵です。ゴッホは数百枚もの浮世絵を購入したそうです。当然、彼の絵の中にそれをさまざまに取り入れています。
手前の太い梅の幹と遠くにいる見物客のコントラストで遠近感を出しているのをまねたのが、「日没に種をまく人」です。
これは、フランス南部のアルルに引っ越して数ヶ月経った1888年11月の作品です。
おそらくパリ時代に、歌川広重の「亀戸梅屋補」を模写してその大胆な遠近法を、自分の作品に試すという研究のために描いたのでしょう。
当然、有名なミレーの「種をまく人」に触発された作品です。ゴッホは、オランダ時代に、アムステルダムの国立美術館を訪れて、数々の画家の作品に接しています。ミレーも彼に大きな影響を与えた画家の一人です。彼のように農民を描く画家になろうと思い、若い頃は農民を描いた作品が多くあります。
手前の太い幹、大きな日没の太陽、はるか遠くの小さな木々という大胆な構図になっていることは、すぐ分かりますが、聖書の福音書に絵のモチーフがあることは、意外と知られていません。
ゴッホの父親はプロテスタントの宣教師で、彼も20歳代に伝道師になろうとした時期がありました。ゴッホは福音書の「神の言葉の種蒔く人」の聖なるイメージを絵に重ねていたのでしょう。種蒔く人は、伝道師を志した自らの姿でもあったのでしょう。
福音書には、「種をまく」ということを題材にした話がいくつもあります。種がイエスの言葉であり、大地はそれを受けとめる人々の態度だという考えがあるそうです。
では、初期のゴッホの作品を観てみましょう。
7. 麦わら帽のある静物 クレラー・ミュラー美術館 1881 年 12月
美大生が描くような基本的な油彩画を、初期のゴッホも描いていたわけです。パイプや白いクロスを含めて6つの静物の質感の表現や光の反射具合いなど、将来の可能性を感じさせるものがあります。
ゴッホが本格的に画家を目指す決心をしたのは、1880年10月頃だとされています。指導をしたのは、オランダ写実主義の画家アントン・モーヴです。彼は絵の指導だけでなく、資金援助など何かと彼のことを面倒をみました。
この「麦わら帽のある静物」は、モーヴの指導での油彩画2作目です。彼は、静物画を通して色彩・質感・筆使いなどの絵の基本的な練習をさせました。
麦わら帽やパイプや白い布など、すべて色と形が違う静物を並べて、色彩と質感をどう表現するかに力点をおいて描いたことが分かります。それに対し、下のテーブルの描き方が雑に見えます。
この絵の8年後には、下の「糸杉のある麦畑」というゴッホらしい作品を残しています。
8.糸杉のある麦畑 1889年6月 チューリッヒ美術館
1889年5月から1年間、ゴッホはアルル近郊にあるサンレミの療養所に入院していました。その1年間で、糸杉とオリーブのある麦畑の田園風景を手がけました。
1889年7月2日に、弟テオに次のような手紙を送っています。
「6月に描き始めた最新作は、糸杉と少しばかりの小麦、ケシの花、青い空があり、多彩なスコットランドの格子縞のようで、アドルフ・モンティセリの絵のように絵具を厚塗りした」
「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ」
ゴッホは、日差しが燦々とふりそそぐ、アルルの麦畑の風景画を、自分の最高の風景画と評価しています。そのため同じ構図で3点も制作しています。
この文面からわかるように、絵の中の、オリーブの木、糸杉、麦畑は、ゴッホが見た風景をそのまま描いたのではなく、療養所の近辺の風景をもとに、彼のイメージの中に描いた理想の風景だと言われています。
同じ構図の3点とは、ロンドンのナショナル・ギャラリー、ニューヨークのメトロポリタン美術館、とプライベート・コレクションです。
写真の絵は、2023年6月にスイスのチューリッヒ美術館で観たものです。プライベートコレクションから寄贈されたものと思われます。
9. ひまわり SOMPO美術館 東京・新宿 1888年
日本にいて、いつでもゴッホの傑作を見ることができる、というのは幸福なことだと思います。バブル全盛の1987年に、安田火災海上保険(現:損保ジャパン)が手数料込みで約60億円で購入したものです。当時は、いろいろ反響が大きかった“事件“でした。でも美術品というのは、一般大衆がいつでも見ることができるようにしてこそ、価値があるものだと思います。
常設展示しているSOMPO美術館や、購入の決断をした当時の関係者に、大いに敬意を表したいと思います。
一時は贋作ではないかと言われた時期がありましたが、オランダのゴッホ美術館が真作だと認定し、その疑いは晴れています。
SOMPO美術館のひまわりは、ゴッホ自身がナショナル・ギャラリーのひまわりを、模写したもので、実際のひまわりを見て描いたものではないことが分かっています。
2つを見比べてみましょう。
おそらく、ゴッホは模写するときに、微妙に筆使いを変えて、こうやって描くどうなるかな、などと試しながら、気に入らなかったところを修正しながら描いたのではないかと推測します。
花瓶に自分の名前のサインを書いていることから、ナショナル・ギャラリーの作はとても気にっていたはずです。そのお気に入り作を、ひまわりの季節が終わった時期に模写したのではないでしょうか。
********
美術品の収集家には、貴重な芸術作品を独り占めしたい、自分だけで楽しみたいという願望があって、一般公開していないという人が一部にいると言われています。もし、そういう方がいらしたら、ぜひ一般公開の機会を考えていただけないでしょうか。一美術ファンからのお願いです。
よろしかったら、次の名画散歩もお読みください。