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貸本屋・冒険王・新幹線・ブラジャー

今は、ほとんど姿を消した店舗に「貸本屋」がある。1950年代から60年代にかけて、全国的にかなり繁盛した。全盛期には全国で30,000店も存在したという。

私が住んでいた東北の小さい町には書店は一軒もなく、本を買ったり借りたりして読むという習慣はなかった。

小学校2年生の時に、お腹の病気で10日くらい入院したことがあった。隣町の総合病院であった。同部屋には胃潰瘍のおじいさんや、20歳代の若い入院患者がいた。おじいさんは、右足の膝から下がなかった。戦争で敵に鉄砲で撃たれたと言っていた。

時は、昭和41(1966)年の1月だったと思う。その当時は戦争経験者が当たり前のように世の中にいたわけである。

手術が無事終わって数日したある日、私が看病に来た母にとても退屈だと不平を言った。当時は入院患者用の小さいテレビなどはなく、ひたすら無味乾燥な病室天井の模様を眺めていた。そのため、60年ぐらい経った今でも、その天井の模様を鮮明に覚えている。

母と私の会話を聞いていた若いお兄さんは、「それなら、貸本屋が近くにあるから、漫画本をお母さんに借りてきてもらったら」と言ってくれた。

そう言えば、お兄さんは時々漫画を読んでいたが、いつも見舞いに来るお兄さんのお兄さんが、毎回違う漫画を持ってきて交換していた。

さっそく母は買い物のついでに、貸本屋で漫画本を一冊借りてきてくれた。確か20円だったと思う。

「冒険王」だった。物珍しさも手伝って、私は隅から隅まで読み耽った。

その冒険王は、2、3年前に出版されたものだった。特集記事の中に、東海道新幹線が昭和39(1964)年10月の開通することもあってか、新幹線についての特集ページがあった。

蒸気機関車、電車特急「こだま」と東海道新幹線のスピードや、性能などを比較しながら、漫画をふんだんに使って説明してあった。蒸気機関車の正面が漫画の顔になっていて、どんなに頑張って走っても新幹線には追いつけないというような漫画が、今でも印象に残っている。

九州鉄道博物館にて撮影

退院後、学校に戻って最初の図工の時間は版画だった。私は0系新幹線の版画を掘ってみた。団子鼻の新幹線と自分の乗る姿を画面いっぱいに配置して、自分でもうまくできたと今でも思っている作品でした。

早く本物の新幹線に乗りたいと思っていたが、結局、私の新幹線初乗車は、9年後の高校2年の時だった。私にとっては、憧れの新幹線の期間が10年近く続いた。文字通り「夢の超特急」だった。

貸本屋のある隣町までは、バスが一日数本通っているだけなので貸本屋に行くことはしばらくなかったが、小学校5年生の時に、珠算の検定試験を受けるために、6年生の男の先輩と二人で隣町に行くことがあった。

その先輩は、漫画本がとても好きで、貸本屋の存在も知っていた。珠算検定も終わって、帰りのバスの時刻まで、時間があったので貸本屋に行ってみた。

すると、貸本屋に「漫画本、ただで差し上げます」と張り紙があった。近々閉店するということだった。先輩は大喜びして、風呂敷に包めるだけの漫画を包んでいた。

私は、漫画はそれほど好きではなかったので、2冊くらいもらって帰ったと思う。入院中の退屈を解消してくれた貸本屋が消えてしまうことが、子ども心に少し残念だったことを覚えている。

貸本屋からバス停に戻っても、まだバスの時間までしばらくあったので、二人でバス停前のベンチに座って、その前を通っていく人をぼんやり眺めていた。

先輩はいきなり、「これから、通行していく女の人が、ブラジャーをしているかどうか、当てっこしよう」と言い出した。若い人は二人とも「している」と意見が一致したが、年配女性になると意見が分かれた。その先輩のおかげで、その後大人の女性を見ると、「している、していない」を心の中で当てっこしていた。悪い影響をすぐ受けやすいのである。

貸本屋は、テレビの普及や少年週刊誌が大衆化して、60年代後半には衰退していった。戦後のほんの10年程度の繁栄期間だった貸本屋だが、「劇画」という新しいジャンルを生み出し、戦後漫画文化の一翼を担って、その後のレンタルビデオ・CDなどの普及に繋がり、今や全世界を席巻しているマンガ・アニメ文化のに貢献したといえるのではないでしょうか。

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