『ニュー・アース』省察② ‐ 言葉というラベルによる呪縛と、アイデンティティへの執着による機能不全
第二章 エゴという間違った自己のメカニズム(其の1)
世界をありのままに見る ‐ この「ありのまま」を阻むものとして、『言葉』の呪縛について強烈に説くことから、この章はスタートしています。
言葉によって、思考は私たちを縛ることができる…。
私たちは、必然的に言葉を学びます。
他人とコミュニケーションをとるために。
様々な概念を理解するために。
でも、その言葉が物事の枠組みを決めてしまい、モノが元々持っている瑞々しさを奪うなんて…。
私はかつて、早く物事を学ばなくちゃ、理解しなくちゃ、そして理解していることを他人に分かってもらわなくちゃと躍起になっていました。
そこには生命力も躍動感もない…無味乾燥なラベルが並んでいた、いや、そのラベルの洪水に溺れていたんですよね。
興味が持てなくても「腹落ちさせなくちゃ」とか頑張って、そのラベルをガン見したり、わざわざ会話に登場させて弄んだりしてね。
心底、何が起こっていたのか分かりました…。
そして、その言葉の使い方で最も大きな過ちを引き起こすのが、『私』という言葉だ、と著者は言います。
この「○○」にはいろんなものが入りますよね。
性別、国籍、身体の特徴、職業、宗教、持っている物から、個人的意見や過去の出来事など…。
これらによって縛られた状態の思考の流れ、そこに付随する感情から離れることができていないことを、著者は「スピリチュアルな無自覚状態」と表現しています。
この状態のとき、その人の頭の中には片時も止まらずにしゃべり続けている声がある。
この声の主、無意識な心に、多くの人々は乗っ取られている、と。
昔、ある知人と初めてサシ飲みしたとき、その人が「まずは私という人間の説明から」と言ってご自身の歴史を語られたことがあって、この辺りを読んでいてその時のことを鮮明に思い出しました。
生まれた場所から家族構成、学歴と職歴に自身の好みの異性や思考傾向まで…ひとしきり話し終わって、「これが私です」と言われた時の、なんとも呆気にとられた気持ち。
自身についての解釈の嵐に過ぎないのに、それら自分を構成するモノとそこに付随する概念を自分自身と思い込んでいる、その無意識。
本人が元々持っている生命力、瑞々しさを失ってしまっている…たしかに。
その時の情景を思い返し、今なら私はどう反応するのかな、なんて考えてしまいます。
ここから少し話が飛んで、エゴの『中身』と『構造』についての解説に入ります。
子供がおもちゃを取られて泣いているとします。
エゴの『中身』はこのおもちゃ。←おもちゃはどんなモノとも代替可能。
そのモノとの結びつきが『構造』。
環境や育ち、文化によってどんなモノ=『中身』を欲するかは変わってくるけれど、そのモノとの結びつきによって自分のアイデンティティを強化したいという無意識の衝動こそが、エゴの『構造』である、と。
モノに自分のアイデンティティを見出すということについて、わかりやすいのは何か製品を買うという行為だったりしますよね。
モノを買うことによって、他人から見た自分のイメージが変化するのではという期待。
例えば、そのモノを広告している有名人のようになれる魔法がかかる、とか。
ここで、著者からすごく面白い指摘が入ります。
「いわゆる消費社会が成り立つのは、人がモノに自分自身を見出そうとする努力がどうしてもうまくいかないからである」、ですって。
うまくいかないから?
つまり、エゴの満足は長続きしないのです。
もっと、もっと、となる。
どんなにアイデンティティを強化したつもりでも、結局不満を解消することはできません。
そして、常に「より多く」を求める。
そうやってモノが売れ続けることを、今の世界では「成長」とか「進歩」とか呼ぶかもしれないけれど、そこにあるのはモノに対する執着や強迫観念。
すべてのモノは、形のない「生命」に起源をもつ一時的な存在としてそこに「ある」というのに、そのモノに対する尊重がないのは、自分もその一部である組織体を内側から破壊していくガン細胞と同じ働き、つまり人間の機能不全の表出。
ふぅ…。
自分自身の状況はどうだろう?
そこを判断するにはかなり注意深い観察と正直な心が必要。
第二章はまだまだ続きますが、今回はここまで。
(というか、まだほんの30ページ少々しか進んでいないです…トホホ。)