『ニュー・アース』省察④ ‐永久に満たされない欲望からの脱出、カギは”内なる身体”
第二章 エゴという間違った自己のメカニズム(其の3)
さて、前回は『所有』とエゴの構造的な関係と、モノへの執着についてまとめて締めくくりましたが、今回はその『所有』という概念が膨れ上がった先のことから記述していきます。
つまり、どんなに『所有』を繰り返しても、どんなに良いものを手に入れたとしても、その時点ですでにその人の心の裏には不満、非充足の感情が存在しているということです。
そして、自分を同一化させるモノを「もっと、もっと」と欲する。
著者はこの『欲望』を、依存症的な要求と述べています。
そして、それが肉体的なレベルに移行したのが過食症である、と。
過食症では、飢えているのは身体ではなく心 ‐ だから、自分自身をその飢えた心と同一化するのを止め、身体感覚を取り戻し、身体が本当に求めるものを感じられるようになったとき、治癒するのだそうです。
そして、こう続きます。
具体的な対象の無い強烈な『欲望』は、まだ発達段階にある10代の若者によく見られるそうです。
先日、最近の様々な社会変化の影響で、子供の自傷行為や自殺が増加しているという報道を目にしました。
表層の問題だけに気を取られて解決しようと躍起になるだけではなく、彼らの満たされない『欲望』の存在に目を向けて、その根元にある同一化を止めていけるような対応が必要なのだと理解しました。
ここから、モノ以外に自分を同一化させる対象として、自分の身体が取り上げられます。
自分の身体が醜いとか不完全だという思いから自尊心が委縮して傷ついている人は多い、と。
また一方で、美しい容貌や肉体的な力、能力などと自分を同一化している人は、その衰えが苦しみとなります。
つまり、マイナス面でもプラス面でも、人はアイデンティティのかなりの部分を身体に求め、その身体に関する精神的なイメージを自分だと思い込んで同一化してしまいます。
最近、この本の著者エックハルト・トールと、イギリスのいわくつきコメディアンであり俳優のラッセル・ブランドの対談をYouTubeで見たのですが、そこでエックハルト自身がラッセルに向かって、
「私もあなたのように素晴らしい容姿をしていたら良かったのですが、残念ながらそうではなかったので、容姿に自分のアイデンティティを求めることにはなりませんでした。その代わりに私のエゴは、私の知性を対象と見定めて、私を同一化させていきました。しかし、それは常に不安、欠落の意識と隣り合わせです。なぜなら、これは思考によるイメージ、作られた物語に過ぎないからです」(かなり意訳しています)
と語り、ラッセルが深く頷き深呼吸する対話に発展していっています。
とても分かりやすくて印象的な一節です。
そして、この同一化は、身体の欠損や病気や障害をもアイデンティティに取り込み、その「苦しんでいる者」というアイデンティティにその人がしがみつくようにも働きます。
無意識のうちに疾病というアイデンティティにしがみつく、そしてそれを強化するために…もっと重い病気を創り出してしまうことさえあるのです。
…と、恐ろしいことを書いていますが、その直後にこうも付け加えています。
身体への同一化はエゴの最も基本的な形の一つだが、ありがたいことにこれは最も簡単に乗り越えられるアイデンティティでもある、と。
どうやって?
自分の関心を、外側ではなく内側から感じられる生命感に移すことによって。
この『内なる身体』への気づきは、エゴから脱出する大きなカギになります。
だいぶ前になりますが、Momoyoさんも動画などでおっしゃっていましたね。
頭の中の声が襲ってきそうになったとき、一番いいのは筋肉を動かして、身体の感覚を取り戻すことだ、と。
そうすると、いつの間にか頭の中の声は消え失せていたりするものです。
『内なる身体』に気づくとは、自分の生命エネルギーに気づくということであり、さらに本来我々が同一化すべき核心である『大いなる存在』への架け橋に気づくということに繋がっていきます。
おっと、つまり同一化はすべてダメなのではなくて、核心たる『大いなる存在』に対してだけはOK、ということなのですね。
…今回は、ここまで。
長年の公私に渡る不調和を正面から受け入れ、それを越える決意をし、様々な探究を実践。縁を得て、不調和の原因となる人間のマインドを紐解き解放していく内観法を会得。人がどこで躓くのか、何を勘違いしてしまうのかを共に見出すとともに、叡智に満ちた重要なメッセージを共有する活動をしています。