『ニュー・アース』省察③ ‐ 「モノを所有する」という自分の“物語”と執着の行きつく先
第二章 エゴという間違った自己のメカニズム(其の2)
次に、著者がカウンセラーとして関わっていた、余命数か月の女性の話が出てきます。
大切にしてきたダイヤの指輪が、世話をしに来ている女性に盗まれた、と憤っている彼女とのやり取り。
その疑惑の女性を問いただすべきか、警察に通報すべきか…そうまくしたてる彼女に対し、その品物がどれほど自身にとって重要なのか考えてみては、と助言した著者。
起こった出来事に対する怒りと自己防衛の反応は、彼女を通してエゴが発動している印、とは…手厳しいなとも思えてしまう記述です。
しかし、死期が迫っている彼女にとって、その指輪を手放すということは近々必ず起こること。
そんな中、その指輪を手放したら自分が小さくなりますか、損なわれますか、と著者は質問します。
その女性は、しばらく沈黙し、自分の中の感覚に問うていきます。
そして、それがなくなっても『私は在る』、損なわれてなどいない、という感覚を会得するのです。
これを著者は『大いなる存在』の喜び、と表現しました。
思考でできているエゴは、この喜びを知ることはできません。
人間は思考から、頭で考えることから抜け出したときにはじめて、これを感じることができるのです。
この場合、指輪=女性の頭の中の思考がアイデンティティを付与したモノ、に過ぎないのに、女性はその指輪を自分の一部と誤認していたということです。
『私は在る』という意識に目覚め、エゴを克服したこの女性は、それから多くのモノをたくさんの人に与え、ますます喜びを深めていったそうです。
そう、この女性は意識の進化に最も役立つ経験として、大切な指輪の喪失という経験を与えられたのです。
さて、私のような人間は、ここまで読んで「じゃあ、モノを持つのは悪いこと?豊かになろうとすること、目立とうとすることは悪いこと?」と考えてしまいます。
著者は答えています。
それは善でも悪でもない、エゴだというだけ、と。
そして、エゴの位置づけとその克服のエッセンスをこのように表現しています。
そして、ここから『所有』についての解説が始まります。
キリスト教での「心の貧しいものは幸い」というフレーズがここで引き合いに出されていますが、ここでいう「心の貧しい」とは、心に何の持ち物もない、何にも自分を同一化していない状態、ということだそうです。
そして、どんなモノにもアイデンティティを求めない人は、「天の御国」を、つまり『大いなる存在』の喜びを感じることができる、とあります。
ただし、です。
それゆえ、スピリチュアルの世界では洋の東西問わず所有が否定されてきたものの、それだけでエゴから解放されるわけではない、とも説いています。
エゴはなんにでもアイデンティティを求めることができるからです。
つまり、所有を否定した人 ‐ 今でいうミニマリストでしょうか ‐ が、もし「自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ!」や「モノを持たずに生きている自分は他人よりスピリチュアルなのだ!」という精神的な自己イメージを持っていたとしたら、エゴは今度はそれをアイデンティティとして生き延びているということになります。
そして、現代社会でのエゴの側面についてさらに続けます。
我々の身近で、まさに実際に起こっていることです。
自分の価値が社会の中で、他者との比較の中で決まるという思考に囚われている限り、集団的妄想という病に罹っていることにすら気づかずに、モノの所有に一喜一憂…つまりエゴに振り回されて終わる人生になってしまいます。
では、そのモノへの執着はどうやって手放せばいいのか?
ここでは筆者はこう言います。
まだまだ続きます。