人ぞれぞれの歩み、比べない比べない
自分のことを外に発信するとき、やっぱり伝わりやすさ、解りやすさって考えます。
また、せっかく発信するんだからと、そこにキラリと光るなにか、独自の感覚やほかの人にとって気付きになってくれるようなものを盛り込みたいとも思ってしまいます。
その結果、表現されているものが実際とは多少形式を変えていたり、抽象化されていたりもします。
それから、これは私に限ったことではなく誰の発信であっても、そこにある情報はその人のほんの一部に過ぎないと思っています。
その陰には、取捨選択のなかで落とされた膨大な情報、試行錯誤の経緯、シェアしたくない失敗なんかがあるはずです。
みなさんもきっと、自分のことを振り返れば、親しいひとに対してでも、ちょっと取り繕ったり、自分を正当化したり、少し大げさに甘えてみたり、聞こえの悪そうなことは敢えて黙っていたりという、自分についての『情報開示』に手心を加えてしまいますよね。
でも不思議、他人のことになると、なぜだか自分に見えたこと、聴こえたことだけでその人の全量を把握できるような気持に、うっかりするとなりかねないのが私たちだと思います。
私のこのブログも、たくさんの紆余曲折や試行錯誤を記述しているように見えるけれど、書けているのはほんの一部。
実際にはこれの何倍もの悩みや挫折、自分でも説明の出来ない事柄にまみれています。
自分で言うのもなんですが、私けっこう都合の悪いことをコロッと忘れるのが得意でして。
たぶん、多くの人からビックリされるんじゃないかと思いますが、他人からの辛辣な言葉とか、身体的な痛みとか、時と共に簡単に忘却の彼方に去って行ってしまうのですよ。
…だから、忘れないうちに書いておくことが大事だったりするのですが。
後で、あんなヒドイことを忘れていたってこと自体に気が付いて、よく一人で呆れたり爆笑したりしています。
ま、これも個性、ギフトですね。
…ちょっと話が逸れました。
今回はブログのテーマとして、本当の自分を見つけるとか、自由になるとか、魂にかえるとか、そんなに一筋縄でトントン拍子に進むものじゃない、ってことを書きたかったんです。
人生における、ほかの色々な修行と同じように。
とても力強かったり自由を享受しているように見える他人の姿を目の当たりにして、羨望を感じるのはもっともなこと。
でも、そこに至るその人の光の部分だけを見て、自分と比較して自分の在り方を卑下するのはマジで止めよう。
その比較で、あなた自身を卑下するその声は、あなたのマインドだよ。
私などが敢えて書くのはとても僭越なのだけれど、Spiritual Anatomyの師匠MOMOYOさんだって、今に至るまで表に出していない膨大な葛藤と試行錯誤があるはず。
私に見えている範囲だけでも、これはものすごく一部に過ぎないと認識した上で、途方もない道のりを歩んでこられていると思う。
私、絶対に成り代わりたくないし、代われない。
そんなことより、わたしは私なりの歩みをただただ進めたい、と思う。
これからだって時として、小石につまずいたり派手にコケたり、不本意にも落とし穴にハマったりもするだろうけれど。
この世界では誰もが、自分なりの歩みをすることになっている。
その歩み方を見失っていると、結構苦しい。
本来の歩み方に逆らっていると、もともと必要だった以上の問題に苛まれたりするしね。
その歩みは、スピードも方向性もほんとうに人それぞれ。
他人と比べようとしても、なにも評価できる物差しがない。
だから、自分なりに、謙虚にも大胆にも、進む道を探して、見つけて、進むしかないのだ。
もちろん、その旅路には十分な課題やトラップが仕掛けられているから、退屈はしないでしょう。
旅路そのものを、楽しもう!
…今回も、必要な人にこのメッセージが届くといいなぁ。
≪巻頭写真:Photo by Julian Hochgesang on Unsplash≫