もがいて生きて、表現する
先日の話だが、学生時代に交流があって、約5年ぶりに連絡をしてくれた人(Lさん)がいた。
彼女は、教育現場で、探究学習や社会参画意識を育む授業の支援をするNPO法人で仕事をしている。
側からみると、社会的にもとても意義深い仕事に取り組んでいる時代の先駆者にも見える。(よく周りから「キラキラしているね」と言われるらしい笑)
そんな人が、わざわざ連絡をしてくれた1つのきっかけとして、心に引っかかるモヤモヤがあったらしい。
そのモヤモヤは簡単に言葉にできるようなものではないが、私に聞こえてきたモヤモヤは、以下のようなものだ。
現在の仕事をしているだけでは満たされない、
もっと表現したいウズウズした想いが自分の内側にある
このモヤモヤは、けっこう難しい。
表面的なアドバイスは腐るほど世に溢れているが(笑)、私自身もう〜んと唸っていた。
そうして、おしゃべりはモヤモヤとともに終わったが、同僚やいろんな人と会話をしながら、私なりの思考が整理されてきたので、noteに書いてみる。
■ 心の琴線が触れ合う表現とは何だろう
Lさんのモヤモヤに対するありがちな応答は、「もっと自分らしく生きよう」とか「周囲の目を気にせず、もっと自分を発信していこう」といったものだ。
シンプルだし、そういう生き方・あり方を否定はできない。しかし、いざそうしようと思って、私たちの多くは恥の感情が湧いてくる。
この恥の感情の底には何があるんだろうか。
内田樹さんは「自分らしく」生きようとすることを、裸で街を歩くことに例えている。(引用:『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 Ⅳ章「らしく」生きるより)
どんな場合でも「自分らしく」していたいとうことをさらっと言う若い人がときどきいます。けれでも、それはあまり賢い生き方ではありません。
自分の素をむき出しにして生きるというのは、裸で町を歩くのと同じです。
確かに、「自分らしさ」は誇示できるでしょう。でも、それによって他人を不安にし、無用のトラブルを引き寄せる可能性が高まるなら、そのコスト・パフォーマンスは決してよいものではありません。
つまり、私たちは関わり合いの中で生きているのに「自分らしさ」を主張するような生き方は迷惑であり、美しくない。
実際、誰もが発信できる時代の象徴でもあるSNSやYoutubeチャンネルやを眺めていたりすると、見苦しさを感じてしまうことってないだろうか?
良くも悪くも、私たちは「自分らしさ」を押し殺しあって生きているといえるかもしれない。その中で「自分らしく」生きようとすることや自分を表現するということは、疲れやすく蓋をしてしまいがちだ。
それでも「ああ、この人の表現はとても美しいな」とか「心に響くな」とか、心の琴線が触れ合う表現に出会うこともある。
その奥には一体何があるのだろう。一つは、表現する人の「存在」が感じられるのだと思っている。
■ 自分という「存在」って何だろう
では「存在」から表現するとはどういうことなのか。
それは、想いとは違うのだろうか。
そもそも、自分自身という存在はどのように形作られるのだろうか。
この問いを考えるにあたって、Facebook最高執行責任者であるシェリル・サンドバーグさんが語っていた話を思い出した。
彼女は、それこそ21世紀を代表する会社ともいえるFacebookの、最高執行責任者を務める女性。多くの働く女性にとって、キラキラしたロールモデルとして存在していることだろう。女性のリーダーシップを説いた『LEAN IN』も世界でベストセラーになっている。
しかしある時、彼女は突然にして、愛する夫を失った。
その逆境・失望から乗り越えた体験を元に書かれたのが『OPTION B』という本だ。
その著書や大学での卒業スピーチを通して、「自分自身という存在はどのように形づくられるのか」について、彼女なりの考えを表現している。
以下は、卒業スピーチの映像とその一節。(ちなみに、この卒業スピーチそのものも、彼女の存在が表現されているように私には感じる。)
ここで問いたいのは、このようなこと(逆境・悲劇)があなたの身の上にも起きうるか否かということではありません。これらのことは必ず起きるからです。
今日私がお話ししたいのは、その後どうするかということです。逆境を乗り越えるためにあなたになにができるかということです。例え、それがどのようなかたちでも、いつ起きたとしても。(・・・略・・・)
あなたが成し遂げたことではなく、どのようにそれを乗り越えたかにより、あなた自身というものが明確になるのです。
https://logmi.jp/business/articles/144715 より抜粋・一部補記
彼女が語ることを私なりにまとめると…
自分という存在は、自分の理想に反する逆境をどう乗り越えるかによって形作られる。
■ 自分の存在を通して、みえる価値・世界
人が直面する現実はそれぞれであり、個人的なものだ。
同じ出来事を体験しても、何も感じない人もいれば、怒りや悲しみを感じる人もいる。
人は反対側を知ることで、その価値を知ることができる。
「孤独を知らなければ、つながりの価値がわからない」
「虚無感を知らなければ、充実感という価値はわからない」
とか言ったりする。
その人が個人的な「喪失・欠損・逆境」に直面するから、その人にしか知り得ない「価値・世界」がある。
それは、その人の存在を通してのみ、表現されうるものがあるということ。
そういえば、昨年アカデミー賞を受賞した『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督は、「最も個人的なことは最もクリエイティブなこと」という言葉をスピーチで共有していた。
■ もがいて生きて、表現する
不都合な現実に直面しているその時、表現する余裕はないかもしれない。
でも、きっと私たちは、現実でもがいて生きるその時に、自分自身の存在が、そして創造性の源が際立ってくる。
そこから表現されるものが、きっと誰かの心に響き、大切なギフトになる。
単にもがいて生きるのではなく、単に自分の想いを表現するのでもなく、「もがいて生きて、表現する」。
それが、Lさんを通して、降りてきたメッセージだった。
私自身、そういう生き方をしていきたいし、そんな生き方を支えあう「ともいき」の輪を深めていきたい。
Lさんのウズウズした想いが表現されることが楽しみだ〜
■ おまけ
最近、心の琴線に触れますなあ〜としみじみ感じた表現のご紹介。
▼KOKIAの「1 to 1 Live for you」
▼吉満 明子さんのエッセイ『しずけさとユーモアを』
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