カフェに行くのはバカだった話
カフェには色々な人がいる、私もその一人だった
だがカフェに行くのが馬鹿馬鹿しく思えてしまった。
これはそんな私の気づきを書き出した、noteです。
<私がカフェに行っていた理由>
ブログを書くためにカフェに行っていました。家でも出来るでしょ?
と思うかもしれませんが、家ではスイッチが入らなかったのです。
要はカフェに行くことが、ブログという習慣のスイッチだったんですよね。
カフェに行けば、ブログを書くことは困難ではありませんでしたし、読書をするハードルも低くなりました。
一体なぜなのかを考えると色々理由を挙げられます。
「カフェまでのウォーキング」「コーヒーの成分」「周りの環境」
どれもがやる気や集中力をUPさせる効果があります。
では、これだけ見るとカフェに行って何かを取り組むことは生産性の高い行動に思えます。私もそう思っていました。
カフェに行くことに懐疑的になったのは、なぜ私はカフェに行くのだろうと自問したときでした。確かに前述したとおりブログを書くために行っていましたが、本能レベルでは「人との繋がりを求めていた」ことに気がつきました。
具体的には外に出て、「どこかお店に入ることで何かイベントが起きるのではないか?」とか「可愛い女の子と話せるのではないか?」的なことです。
ですがそれらを求めてカフェに行くことも、カフェでブログを書くのもBESTな選択ではありませんでした。
おそらく多くの人が、なんとなくカフェに入り色々なことをしていますが、結局は帰属意識の本能のもと行動しているのです。
この体験の一番の驚きは、カフェに行くことが良い選択だったという認知の歪みです。
ブログを書くなら、家で作業できるよう環境を構築した方が良いですし
出会いのイベントを求めるなら、パーティーにでも行けば良いのですよ。
それがBESTなんです。
わざわざお金を払ってまで、コーヒーを飲みながら作業に浸っている自分をバカバカしく思えてしまったんですよね。
このnoteで言いたいのは、BESTだと思っている行動は認知の歪みがあるかもしれないということです。
人は自分の行動を正当化したい生き物なので、なかなか気づくことができません。
カフェでこのような気づきを得たのは、1時間ほど店内の人を人間観察していたからです、この人はなぜここのカフェに来たのだろう?
このようなことをずーっと考えていると、いつもの日常の同じ風景が一変することがあります。
ぜひ試してみてね
byebye