会釈はしなくてよくなくないか
定期検診に病院へ。ここは基幹病院なのでどの時間帯でも人が多い。最初は見知らぬシステムに戸惑ったけれど、すっかり慣れて我がもの顔で院内を闊歩する。
エレベーターから車椅子で降りてくる人がいたから脇に避けてまつ。車椅子の人も付き添いの人も会釈をするので、わたしも会釈で返す。
そういえば、以前エレベーターに乗っていたら車椅子の人が入ってきた。わたしはドアを開けて待つ。車椅子の人は前方を凝視したまま。
降りるときも、わたしは「開」ボタンを押して出ていくのを見守る。前方を凝視したまま固い表情で去っていく。
少し表情の変化はあるし、階数を確認する時に首を動かしていたので、会釈は可能なのだと思う。きっと、あえて何もしないのだろう。
車椅子に乗っている人が電車に乗って出かけるだけで、数え切れないほど他人に頭を下げなければならないと聞く。
わたしは見返りのために場所を開けたり、ボタンを押しているわけではない。
会釈をされたら、こちらも会釈を返す必要があると思えば、出来るだけコミュニケーションを避けたい私にとっては、スムーズな流れでお互いにメリットがあるとも言える
それでも、車椅子の人に「してあげる&お礼が当然」の社会よりと「するのが自然&お礼不要」の社会のほうが、やさしい世界ではないだろうか。
あの時の険しい顔は、そんな社会を目指すために戦っているのだと感じた。
いつものエレベーターに乗るたびに、あの時の車椅子の人を思いだす。