道を間違えたけど間違いじゃない
あまり深く考えずにリツイートした投稿に対してわたしのフォロワーが気に入らなかったようで、その投稿に怒りをぶつけていた。
確かにその文脈からみると、不快な言動にみえるのもわかる。
例えば同じ趣味が集まるサークルがあるとする。「あまりのその趣味に興味がなくても、そのサークルには良い人が多いから、行って仲良くなると楽しいよ」という投稿をみて、わたしはその趣味の人たちに知り合いがいて、現実的に良い人ばかりなので、いい話だなと思った。
だが、そんな風に趣味に興味がないのにサークルに入ってくる人は迷惑だという怒りが発生するという風なことだ。
わたしとしては、その趣味に興味がなくても入って仲良くなるには趣味に対しても取り組まなくてはならないわけで、そこで好きになる可能性もあるし、嫌いならサークルメンバーにも受け入れられないだろう、という自然淘汰的なイメージでいた。
しかし、そうした趣味に興味ない人たちによって趣味のサークルが崩壊する可能性も確かにあるよなあとも思う。
この認識のズレを考えたとき、わたしは何かを始めるときに、対象に対する純粋で真っ直ぐな気持ち求めていないことに気づいた。
なんとなく。気は向かないけど。迷い込んで。そんな風に選んだ道の先に、とても気持ちよい風景が広がっているのではないかと思っている。
さらに言えば、自分が選んだ道を逸脱することに、人生の妙がある。
この人生観は、わたしが目標を立てて、そこを目指して歩んでいく人生に懐疑的だからだろう。
ゴールを決めてしまったら、ゴールにたどり着いた後はどうするのか。再びゴールを設定して走り出すのか。
ゴールを決めずに寄り道をしながら生きていく。その道中でいかに満たされた歩みができるか。
だから、たとえ違う目的でやってきたとしても、そこから始まる新たな展開に期待してしまう。
そんなことを思うわたしは、いつもできるだけ安全な道を歩んでいる。だから憧れるのだろう。