【日記】“文芸思潮新人賞”と“宝塚新人公演”と“韓国料理ピクニック”の話【24.4/29-5/5】
ゴールデンウィーク後半。僕は止まらない咳と終わらない仕事と格闘を続け、なんら“ゴールデン”でもない日々を過ごしてしまった。咳が気になるので映画を観に行くこともできず、ただひたすら自宅で鬱々としている…。そんな1週間のうちにあった、少しでもの気晴らしの記録。(と、書き始めてからさらに1週間が経ってしまった)
▶︎今年も応募!文芸思潮新人賞
4月30日。火曜日。
字数制限の勘違いに気がついたのは、ほんの数日前だった。この日の消印まで有効の文学賞「文芸思潮新人賞」に応募しようと小説を書き進めていた僕は、てっきりその字数制限を20万字以内だと思い込んでいたのだ。
去年応募した『不可逆的後悔史』を佳作に選んでいただいたご縁もあって、なんとか今年もと意気込んで筆が走った。個人的には去年の作品よりも描きたいものがクリアになって、物語の蓋然性や小説世界の手触りもより細やかに具体的になり、募集要項に記載された下記の文言からもそう外れていないような感触があった。
ここ数年、仕事やプライベートで「ものをつくり」ながら、そして様々なコンテンツに触れるなかで、自分が表現したいもの、もっと感覚に言えば「触れてみたいもの」がわかってきたような気がする。それが「描きたいもの」として創作活動の原動力になることも、それが「知りたいもの」として知的探求の原動力になることも、それが「考えたいもの」として人生に悩む原動力になることもある。
今回の小説も、その「触れてみたいもの」の正体を知りたいと願い、その正体と向き合おうとして書き連ねていくと、いつのまにか3万字近くにまでなっていた。
締切も近づいたある日(たしか25日の木曜日)、「あれ、そういえば、何字くらい書けばいいんだっけ」と募集要項を再確認することにした。愕然とする。字数制限はまさかの2万字だったのだ。想定の1/10。わぁお。これまで字数が足りなくて唸ったことはあったけれど、まさか超過とは…。しかも現時点で1万字もオーバーしている。
まず思いついたことは、文芸思潮新人賞を諦めて他の文学賞に応募することだった。ただ去年のこともあり、なんとしても今年も出したいという想いが強かった。そしてなにより、上に引用した募集要項の「暴かなければならない人間の本質的な問題」という言葉が胸に突き刺さっていた。
この「暴かなければならない」という表現が僕はとても好きだ。きっと本当は「人間の本質的な問題」など、「暴かないほうがいい」あるいは「暴かなくていい」のだ。この社会で円滑に暮らしていくためには、この日常を平穏に暮らしていくためには。でもきっと、この社会でこの日常を暮らしているほぼすべての人が、「本質的な問題」を自らが抱えていることを本能的に知覚している。だからこそ、僕たちは苦しく辛く、その先に幸せを希求するのだと僕は思う。そして僕はそこに触れてみたいのだと。
やっぱり応募しよう。
そう思った僕はまずは物語を書き上げて、必死に推敲し1万字削った。多少は無理があるだろうと思う、書き足りない語り尽くせていない部分も少なくないだろうと思う。でも振り返れば、この作業もすごくタメになった。自分がなにを描きたいのか。そのことを鮮明に考えざるをえない時間だったから。
「暴かなければならない人間の本質的な問題」
僕が「触れてみたい」と思う“なにか”に1つの言語的な表象を与えてもらっただけでも、そして同時に、僕が「触れてみたい」と思うその“なにか”はきっと「問題」という言葉の領域ではないということがわかっただけでも、すでに値千金のチャレンジだったのかもしれないと思う。
ずっと書きたい歴史小説があり、当初は6月締切の「オール讀物新人賞」を目指して取材していたが、やはりがっぷり四つで取り組みたいと思い1年間かけることに決めた。来年にはカタチにできるよう、しっかりと取材して構想を練る。
次の目標は「小説現代長編新人賞」に据えた。去年の夏に体験していたことに関連して、ある群像劇を書いてみようと思う。
▶︎心震える宝塚新人公演!
5月2日。木曜日。
宝塚の新人公演『アルカンシェル〜パリに架かる虹〜』を観に行った。宝塚を鑑賞するのはこれで2回目。新人公演は初めてだった。
そして…
確実に沼にハマり始めているような気がする…。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下のパリを舞台に、レビュー劇場「アルカンシェル」の物語を描いた本作は、宝塚の極めて「自己言及的」な作品だったのではないか。(素人料簡であるとは思うのだけれど)
レビュー劇場を続けたいと願う役者にスタッフ、レビュー劇場に吹きつけるナチスや戦火の逆風、そして「エンタメ」とはなにか、「エンタメ」になにができるのかと問うメッセージ。このレビュー劇場に宝塚を重ね、演じられるキャラクターに演じている役者たちを重ねてしまうのは、きっと僕だけではないだろう。
だからこそ、終演後に主演の天城れいんさんが涙ながらに語った言葉が本当に沁みた。どんなに苦しいことも、どんなに辛く悲しいことも、彼女たちは宝塚をエンタメをレビューを、いや、きっと自分たちを信じて受け止めようとしている。自分たちを信じようとしている。だからこそ自分が夢を託した宝塚やエンタメやレビューを信じようとしている。それが正しいことなのかも悩む。でも、その悩みもまた信じようとしている。だって、自分たちを待ってくれているファンや観客がいるのだから。
僕は宝塚の熱烈なファンというわけではないので、昨今取り沙汰されているニュースに対して客観的に見た意見がないわけではない。ただ、たった1回きりの新人公演を終え、覚悟の言葉を語る天城さんの姿に心が震えないわけはなかった。宝塚のことはわからないけれど、天城さんの語る言葉と想いは信じたい。そんな気持ちにさせる天城さんを応援したくなり、きっとまた舞台に立つときは必死にチケットを獲るのだろうと思った。
本当は作品の中身についても語りたいところだが、あまりにも僕は門外漢なので、詳述する言葉を持っていないので控えようと思う。ただ、今回2回目の鑑賞を終えて、これほどの完成度とボリュームを誇る作品をこの価格帯で体験できるのは、控えめにいっても贅沢だと思う。凄まじいコストパフォーマンス。それを支える役者やスタッフのことを思うと胸が痛むところもあるが、日本にこのエンタメがあることを幸せだとまずは思いたい。
まだ一度も見たことのない人は、騙されたと思って見て欲しい。好き嫌いはそのあとで判断してもいいと思えるほどのクオリティだから。
▶︎気分も快晴!韓国料理でピクニック
5月4日。土曜日。
最近Netflixで『賢い医師生活』という韓国ドラマを観ることにハマっている。今まで韓国ドラマというと、1話90分近くもある絶望的なボリュームと、“いかにも”な演出と展開がどうも苦手で、話題作を観るはするものの心から唸るというような経験は多くなかった。
が、この『賢い医師生活』は本当に傑作だ。
5人の同級生医師を中心として大病院を舞台にした群像劇が描かれていくのだが、「病院」という設定が巧みで、命をめぐる誠実かつ緊張感のある感動がある。そしてその感動は、まるで彼ら彼女たちが手術を施すその手捌きのように丁寧に演出されていて、「クサイな」という感じが本当にない。
ドラマらしいご都合主義的なハプニングとも適切な距離をとっているし、ともすると浸りがちな恋愛の甘い蜜を前に自制的な演出と脚本が心地いい。真面目に生きるという姿勢が貫かれていて、そうして生きていくなかである種の蓋然性をもって起こりうるドラマだけを描きとっていく。本当に「賢い」ドラマだ。
と、前のめりになって『賢い医師生活』を見ていると、どうしようもなく韓国料理が食べたくなってくる。このドラマ、ほとんど毎回食事のシーンが登場し、サムギョプサルにトッポギ、キンパにビビンバと、とにかく韓国料理がどれも美味しそうなのだ。
これは完全に私見なのだけど、食べ物が美味しそうに見える映画(ドラマ)にはいい作品が多いし、いい作品の多くはその食事シーンにおける食べ物が美味しそうに見える気がする。
そこでGW後半、とても心地の良い快晴に風も穏やかで本当にピクニック日和だったこの日、池袋の公園に出かけた。デパ地下でキンパとヤンニョムチキンとチヂミを買って、ビールとチャミスルを片手に、るんるんと足どりも軽くなる。なんていい日なんだろうと思う。ピクニックなんて久しぶりだ。
あまりに嬉しかったので久しぶりに一眼レフを引っ張り出して、写ルンです風に撮影できるレンズをつけてシャッターを押す。
100円ショップで茣蓙を買って意気揚々と南池袋公園に着くと、芝生部分は直射日光にさらされていて「さすがに暑いよね…」と木陰のベンチに座る。茣蓙を買った意味はなくなったけど、快適なのでGOOD。
公園にはたくさんの子どもたちが遊んでいて、公園内にGWの幸せが充満していた。みんなの顔がほころんでいる。とても嬉しそう。とても楽しそう。
自然と僕らも笑顔になって、「キンパ美味しいね」と上機嫌になり、予想もつかない鳩の愛くるしい挙動に「なに考えてるんだろうね」と語り合い、全然ピントのあわないカメラでお互いを撮りあったりする。
なんだが本当に幸せな時間だった。あっという間にビールは飲み終わり、韓国料理ならとチャミスルを飲みほろ酔い気味になったとき、ふと見上げるとあの“こもれび”があった。そうか、『PERFECT DAYS』の平山はこの景色を見ていたのかと思う。そして僕も、その“こもれび”に幸せの色を見てとろうとしていたような気がした。