眠れぬ夜に-19-
第19夜
『また明日』
道々の軒先に植えられた果樹はいよいよ食べ頃で、先を歩く男は小さい女の子を肩に乗せ好きなように柿や林檎をもがせ、いちいちその果物の動画を見せている。向こうでは手を伸ばして枇杷を頬張る大男が「この先に西瓜あります」という表示を肩の上に映し出している。さすがに季節が違うのでは?と一瞬思ったが、寒さが増す頃のそれはそれでうまいのだった。
私たちは今日もこうやって、誰かが作ったものを消費する。また私が作ったものを誰かが消費する。そこにカネのやり取りはなくなって久しいが、無料と言うわけではない。「システム」がオートマティックに収支を見張っているだけである。私の収入は売電と野菜と玉子と3Dデータの使用料というありふれたものだが、天候に恵まれ無駄遣いを控えればなんとかやっていけた。
右は駅、左は旧市街というY字路にでると、好物のコーヒーや探してたワインや珍しい果物や今日似合う服装といったレコメンドが一気に押し寄せる。すべて今の私の気分を心得てはいるが、それがかえって退屈な気分にさせるのだった。いつもなら喫茶店に陣取るのが常だが、今日は退屈ついでに服屋に足を向けた。
服屋、といってもそこは私だけに服を商うのであって、一般的には単に「ショップ」と呼ばれている。私のきっと気に入るコーディネートがいくつか用意されているはずだ。
ショップにつくまでの間、私は洋なしをひとつもぎ、皮ごと食べた。食べ終えるとその樹の持ち主から決済の通知が届いた。これは「使いすぎる」という批判を受け去年から義務づけられた通知である。わずらわしくなったがそれで私の節約が捗ったかは知らない。
そう言えば今度は酸素も有料化される、それは密林ジャングル保有国からの外圧だという。噂に先行して発生酸素量が多い植物の売り込みがふえているが、エディブルバグ(可食昆虫)投資に踊らされた連中はどう思っているだろう。土地や食料が有料であるように、随分と前に水も経済に乗っていたから、空気もまた時間の問題と思われた。
ショップではまだ着たことのないスタイルの服が一推しで、私は似合う気がしなかった。私の服に対する情報が少なすぎるのだろう。時に見つかるこのような誤謬(バグ)を特別に愛でる愛好家がいるのを知っている。それはいずれ完璧に収斂していくであろう「システム」の、いまだ残る不備を楽しむ気分に過ぎないが、私はそれを嫌っていた。
人のスケールでは到底追いつけなくなった「システム」の不備を愛でると言うのは、人間味を探すことであり、つまり慰めである。私がそれを嫌いと感じるのは、慰められるのが嫌いだからだ。自分の中の日に日に大きくなる諦観を、私は心底怖がっているのである。慰めを受け入れることは私にとっては諦めることと同じなのだった。
私には恐怖を感じると必ず思い出すことがある。それはとても美しく、死を含むすべての可能性を光に乗せて浴びせつけ、そしてあっけなく沈む夕陽である。育った町に林立するアンテナの狭間に沈む太陽を私は覚えている。そして太陽に向かって「また明日!」と叫ぶ小さい自分がいる。
この思い出が事実なのは「システム」のアーカイブで確認した。私はこの事実以上に本当の自分を知らない。が、それで充分である。明日からも今日と同じような日々が続くかも知れない。それが現実だろう。それでも「また明日!」と言った自分がいたのだから。
第19夜
『また明日』
了
ノンアルで晩酌のまね事をするようになって久しい。その日の事を手のひらの上に出して見たりクズカゴに入れて見たりもするし、考えても仕方のない事を取り出してきて結局は「仕方ないか」としまい込んだりもする。何も解決しないけれどそれがまたよい。相手がいればたわいもない話で時間を潰し、頃合いで引き上げる。飲んでる時にこれが出来たなら、なんて後悔も案外悪くない。
それでももうちちょっとだけ、と感じた時は小さな物語を読む。小説でもエッセイでも漫画でも。最近は昔書いた自分のテキストを眺めるのも好きだ。私自身、驚くほど忘れていて新鮮である。アル中の利得と言う事にしよう。
暫く、その雑文をここに披露させて頂く事にします。眠れぬ夜の暇つぶしにでもして頂けたら幸甚です。