他傷行為の果て…
私の叔父(現在70代)が30代から40代にかけて家や周り近所で度々、大暴れしていた。
(目の障害のせいで20代から引きこもっていた)
その事で私の家族は、DVをうけ家をでなければならなくなった。(当時、私は小4)
家で暮らすのが難しい叔父は案の定、精神病院でも難しかった。
叔父は結局、今も精神病院に入院しているが祖母が生きている間、県内の精神病院をタライ回しだった。
他傷があると言う事は、生きる選択肢と居場所を確実に失う。
その経験から梅子が重度発達障害と分かった時点で鬼のような気持ちで育てようとした。
力強くで梅子さんのよからぬ行動を抑えるつもりでいた。
恐怖の支配でも何でも良かった。
ぬるいやり方じゃ、障害者には伝わらない‼️と思っていたからだ。
だから、非常に冷たく、厳しくしていた。
しかし、療育センターに入会して河島先生から学んだのは、支配じゃなく、自由に豊かに(精神的に)梅子さんが生きていけるようにする療育だった。
時には、厳しい時もあり、時には面白がりながら、楽しみながら向き合う。
恐怖支配とは全く違った育て方だった。
(無知なる愛より 知識ある愛)
梅子さんが数字を知る事で、人から学ぶことをしり、山登りをすることで身体と心が鍛えられ、文字を知ることで周りが何を言いたいのかを知り、自分の気持ちもアウトプットするようになってきた。
料理を作る事で、台所の道具の名前を知り、水が沸騰することを知り、火の恐ろしさを知った。
また、火を通す事で食品の変化を知り、食材に意識がむくようになった。
人から学び、人の指示に従い、人から喜ばれ、自己肯定感が上がる…
叔父とは全く生き方が違ってきた。
叔父に足りなかったものは何だったのか…今なら少し分かる気がする。
昼夜逆転生活の中、自分のやりたいように暮らし、自分のわがままを通し、何かにつけては親にねだり、まずいこと、めんどくさいことは全て祖母や祖父が尻拭いをしていた。
そして、人から頼まれごとをされたら、機嫌が悪いと大声で怒鳴り散らした。
もしくは、あらゆる物の破壊行動をした。
普通に言葉があってコミュニケーションもとれるのに、暴力で全てを表現していた。
『自分が‼️』が常に1番なのだ。
親は甘えさせてくれる存在。
怖くもなんともない。
仮に親が怒っていても、途中からは美味しいものを食べさせてくれて許してくれるのだから。
親が怖いはずもない。
そんな叔父の存在が私には、凄く嫌だった。
しかし、梅子さんの療育する上では欠かせない存在となったのは間違いない。
反面教師だ。
要は、叔父の生き方を梅子さんにさせなければ良い。
梅子さんを叔父のようにはさせない…
私も祖母や祖父の立場にはなりたくない…
そのためにも、私は『おふくろさん』の立場を捨てた。
なるべく、人間として向き合うことに決めた。
そうやって梅子さんと生きてきた。
今後も梅子さんと今以上によりよくなる道はあるのか、模索しながらいきたい。
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